更新 2016.06.27(作成 2015.02.25)
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第7章 新生 52.品位がない
「退職者をやろうとしたら、対象者の2/3の同意が要ります。まずここが至難の業です。基金が危ない、会社が危ないと脅したりすかしたりして2/3の同意を得たとしても、反対の人は一時金を選択します」
「いいじゃん。それがいいと言う人には一時金をやって手を切ってしまえばスッキリするんと違うん。それに危機感を煽りすぎるとかえって一時金選択者が増えるんと違うかね」
「そうなんよ。どっちにしても難しいんよ。それに、この一時金というのは退職金残額、つまり年金原資の残り元本じゃないのよ。最低積立基準額、俗に特別一時金といって平均寿命までの現行年金総額の現在価値への割引き額になるんで、とんでもない額になります。いわば年金総額の先払いになります。以前、あの大手電器メーカーの森下電機産業でやろうとしたんですが、全員が一時金を選択したそうです。そのため基金の資金が底を突くことになって、結局慌てて白紙撤回したそうです」
「ヘーッ、そういうことがあったの。でも、うちと森下電機産業とは違うからね。みんなそうするとは思えんけどね。ヒーさんならどうするかね」
「義理や立場を抜きにしたら、もちろん、俺でも一時金を選択するよ。このまま置いといても年金は引き下げられるわけでしょう。ひょっとして明日死ぬかも知れんわけで、そうなった時は15年保障部分の残り退職金元金部分しかないわけです。それを平均寿命までの年金を現行水準のままで全額先取りですから、絶対有利ですよ。それをどこかに預けて運用すればさらに上乗せが期待できる。だから皆反対して一時金でもらおうとします。それに向こう何十年も会社や基金が存続するかどうかもわからない」
「うーん、そうかね。しかしほとんどの者が退職一時金のことやと信じとるやろ」
「そう。だからそのことを隠して黙ってやってしまおうとするところもあるようですが、会社が社員を騙すようじゃおしまいです。もしばれて訴えられたら負けます。これはみっともない。会社が詐欺のような経営をしちゃいかんでしょう。品位がない。社員との信頼なんて飛んでしまいます」
「そりゃそうです」
坂本は難しい顔をした。
「それに考え方だけど、現役の人は退職金の変更を労務費の再配分と考えれば、退職金の見直しで掛け金が軽減された分は賃金や賞与に反映される可能性も考えられます。しかし、OBはもうそのチャンスがありません。やはりここは手を付けるべきではないように思います」
「そうか。そんな考えもありますね。わかりました」
坂本は漸く納得した。坂本の中では、OBは甘い汁だけ吸っていい思いばかりしているとの思いがあった。それはこれまでの制度がそうしているのだから仕方がないのだが、その思いがこんなところで頭をもたげてくる。
「それと、セカンドライフ支援制度なんだけど、やっぱり3000万円出すんかね」
「うん。これしかないと思う」
「俺もよくよく考えたんやけど、制度として十分効果を上げようと思えばこれくらい出さんと機能せんやろう。だけど考えれば考えるほど、これではリストラそのものにならんかと気になるんよね」
坂本は組合の立場を考えて、すんなりと受け入れていいものかどうか悩んでいた。
「うん。それは俺もズーッと考えてきたよ。この制度の本質的テーマだからね。だけど俺は、あくまでも社員の自主的選択で運用されるのであれば社員は喜ぶと思うよ。それに会社と社員がシコリを残さずに関係を清算できる方法はこれしかないんよ」
「うーん」
坂本はまだ納得のいかない呻き声を出した。
「結局会社と社員の関係ってさ、いろいろ変わっていくじゃない。その他大勢の中に埋もれて漠然と会社を見つめていられる時は、会社は遠い存在で平和ないい関係が続く。それが中堅になって力が付き、影響力も出てきて、給与に比例して期待も大きくなると時として冷やかな隙間風が吹くこともある。しかもその会社がより身近になり具体的な人の顔として見えてきて、齢も40も過ぎると自己の哲学やアイデンティティも確立して会社への考えや価値観も動かしがたいものになって関係修復が一層難しくなってくる。逆に俺みたいにいつの間にか会社側の人間としてドップリと浸かってしまう人間もいる」
「ホンマやね」
坂本は諧謔的に笑った。
「これまでの人事制度は、社員に居心地のいい制度がズラリとならんで定年まで勤める人が価値があると言ってきました。ところが、世の中が変わってそんな企業理論は独り善がりで、多様な生き方や考え方の中に価値を見出そうとする時代の流れに反するようになりました。高度成長で人手不足の時は、年功制度でこれでもかというくらい社員の囲い込みに血道を上げていた。逆に社員のほうは気楽がいいとか、自分にあった働き方がいいとか言ってフリーターや派遣社員を選ぼうとしていた。ところが不景気になるとその社員たちが安定を求めて正社員を希求してやまなくなったが、企業側はやれリストラや出向で社員を減らし、年功制度の見直しに躍起になっている。双方が相反する動きをします。ただ、その選択権は双方が平等に持つべきで、企業が長期勤務者優遇制度で社員を縛り付ける時代は終わったと思う。会社と社員の関係は対等であるべきです。『会社と社員の新しい関係』とはそういう事だと思う。人事制度はそうなるように作ってきました。だが、退職金制度の見直しになって、これまで安い賃金で散々会社に貸しを作ってきたのに、40、50になってさあこれから退職金だけが楽しみという時に退職金は引き下げます、さあ自立ですと言われても間尺に合うものじゃない。これはある年配の課長から聞いた感想です。だから、その貸し借りが対等に清算出来るのが3000万円だと思ったのです」
「なるほどね。そんな考えもあるのか。だけどそれじゃ社員が逃げて行かんかね」
「だから、そこは企業理念だとか経営方針で結び合うようにしようと『魅力ある企業つくり』を中計で標榜したじゃない」
中国食品は5年前、人事制度の構築と並行して『魅力ある企業つくり』を標榜した中期経営計画を策定している。そこには、やった者が報われる処遇制度や、MBOを通じたコミュニケーションとトップから末端まで一気通貫の会社目標の共有化、フラットな組織作り、社内教育の充実、社内ネットワークによる情報の共有化など、社員を求心する企業施策が盛り込まれ、退職金やセカンドライフ支援制度など遠心力の働く制度を補完した。
これらの政策は藤井のコーディネートによって築かれたもので、数値目標も含めトータルの整合性がバランスよく織り込まれた、中国食品にとって初めての完成度の高い本格的経営計画ができた。
「そうやね」
坂本は感慨深そうに大きくうなずいた。
「人生は大きな樹に登るようなもんでしょう。下のほうの枝葉で終わる者もいればてっぺんまで行き着く者もいる。途中でいろいろな枝葉に分かれて人生悲喜こもごもです。何が切っ掛けで変わるかもしれません。もっとも大きいのは人が代わるということです。俺が入社して直属の部長クラスは8人も代わっている。その度に波乱万丈だよ。会社を辞めようと考えたことも何度かあったが、その度に誰かが救ってくれた。いいも悪いも全て出会いだった」
「そう」
坂本も大きくうなずいて平田の職務来歴を興味深く聞いていた。
「だが、もはや修復できない人とか、自分の新たな人生設計を持ってる人とかいるやろ。それなら積極的に道を選択できるようにしてやるほうが社員のためじゃないかな。そう思って3000万円に決めたんよ。これなら会社も社員もイーブンだと。この制度はどっちが得してもいけないと思う」
坂本はまだ何か言いたそうだったが、平田が会社との関係をそこまで考えた末の結論だと知って最後は納得した。
「これが最終形ですか」
「いや。会社が資金を出すところまでの制度としては余程の反対がないかぎり、ほぼこれでいくと思うけど、付帯的運用の仕組みの部分で新田専務から宿題をもらったんよ」
「どんな」
坂本は、何が変わるのかと不思議がった。