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それとこれとは

更新 2015.01.07(作成 2015.01.07)

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第7章 新生 47.それとこれとは

平田が銀嶺酒造に呼ばれたのはそれから2カ月が経っていた。
銀嶺はやけに活気に満ちていた。
人はそれほど多くはないが、杜氏らしい人の指示で数人の男たちがきびきびと動いていた。その中に混じって製造服にゴム長を履き、蔵人の仕事を手伝う川岸の姿があった。
銀嶺にとって初の仕込みであり、川岸はじっとしておれなかった。
床には製造水が勢いよく溢れ、一般人は雑菌の侵入防止のこともあって入れない。
菊鶴酒造から届いた山田錦は慎重に磨かれ、今洗い米となって何枚かのざるに乗せられ、酒精としての息吹を吹き込まれるその出番を待っていた。
ボイラーにも火が入っているらしく蔵の隅の方からゴーっと火を炊く音とともに湯気が勢いよく噴き出していた。
平田がガラス越しにのぞいていると川岸が見つけ、指で2階の部屋を指示した。
平田はうなずいて事務所の階段を上った。
ここでも玄関に杉玉が掛かっていた。まだ新酒はできていないだろうにと思ったが、杉玉のない酒蔵なんて格好がつかない。もはや川岸の心意気を示したものだろうと平田は理解した。最近作ったものらしくまだ杉の葉の青味が残っている。
2階の事務所にはパートの女性事務員がいたが、事情を話して待たせてもらうことにした。2階の窓からも製造ラインが見えた。
「やー、忙しいところをすまんな」
川岸は労をねぎらいながら入ってきた。
「やっと動き出したよ」
川岸は嬉しそうだった。
「活気があっていいですね。会社全体が躍動してるって感じがします」
「苦労したぜ」
川岸は、杜氏の勧誘や山田錦の仕入れのことなど、ここまでの苦労を冗談めかして話して聞かせた。
「なんせこちらは何にも知らん素人やからな、はっはっはっはっ……」と笑い飛ばしたが、その口元は少し歪みを含み自らの境涯を受け入れようとする自虐の陰を含んでいた。
「それでやな。この勢いを大事にしたいんや。うちの制度を整備してくれんかな」
「整備と言われますとどのように」
「まあ、うちは杜氏が命じゃ。じゃが、暫定的に嘱託雇用しているだけで規定も何もない。パートにしてもそうだ。最低必要な制度くらい整備したい。他の関係会社は本体と一緒に見直しておるんやろ。ここだけ置いてけぼりはないやろ」
「別にそんなつもりはありませんが……」
平田は笑いながら応じたが、しかし、まだ時期尚早の感を拭えなかった。確かに今は杜氏を中心として回っているが、果たしてコア人材なのか。事業を支える基幹的人材たりうるのか、単なる特殊技能人材なのか見極めなければなるまい。
これから会社がどのように発展していくか見通しもないし、今の状況で人事戦略を考える必要があるとはとても思えない。川岸の思い入れの強さだけが際立った。
川岸は銀嶺に出向いて以降、時々本社の人間に対し呼び出しを掛けていた。その反応の仕方で自分の本社における影響力や存在感を測っているフシがあった。
どうも今日の呼び出しもそんな臭いがしてならない。
昔面倒を見た部下が、今でも自分のことを忘れずに言う事を聞いてくれるのか、自分の影響力は今でもあるのか。そんなことを確かめているようだ。
近頃、誰彼となく「ノー」という回数が多くなったようで、焦りのようなものも拍車をかけているようだ。
確かに「恩」は恩だ。しかし、そんな人情で仕事の在り様を歪めるわけにはいかない。人の繋がりは仕事を成すためのもので個人の心情を満たすためのものではない。意味が違う。人情は私的関係で尽せばいい。
平田のこの辺の割り切りはしっかりしている。情に掉さして流されるようなまねはしたくなかった。
この見極めができない人間関係が「ノー」と言えない村社会を作り出し、気づけば世の中の常識とかけ離れた独善的社風が経営の暴走を生み会社を危うくする。
「まだ、少し早いんじゃないですか。それに今は忙しくてとても手が回りません」
これは本音である。今日ここまで来る道のりの1時間ですら、平田には惜しくてしょうがない。
「それじゃどうするのかね。放っておくのかね」
「いえ、そうは言っておりませんが現状でそこまでする必要があるのか考えさせてください」
時間を稼ぐしかないと思った。
「そうか。まあ、よろしく頼むよ」
意外とあっさりと引き下がった。やはりそれ程逼迫した必要性があったわけではないようだ。
「それでどうかね。新社長は元気でやっておられるかね」
急に顔が曇った。
「はい。お元気そうです」
「うまくやっとるんかね」
「うまくと言われますと」
「うまく経営しとるかちゅう事よ」
「はい。そう思いますが」
「そうか」
期待した答えと違ったことで、川岸の反応はあまり弾まなかった。
川岸は銀嶺に来て以来、どうしても拭いきれない得も言われぬある種の不安が心の中に付きまとっていた。
それは本社がこの銀嶺をどうしたいのかという本音である。
本気で銀嶺を立ち上げ、中国食品グループの事業の一環として育て上げようとしているのか、それとも自分のあてがい場所として適当に遊ばせておけばいいと考えているのか、はっきりしないからだ。
もし後者だったらこれ程切ないものはない。
それでも、川岸にしてみれば例えどちらであっても銀嶺を立派に立ち上げなければ自分は生き残れないのだ。今まで、これ程追い詰められたことはない。人生最大の試練を今、一身で受け止めていた。
とは言え、他に道はない。あるとすれば本体の新経営体制のもとで、寂れたホジションで細々と生きながらえるしかない。
自分はこれまで会社のために必死で働いてきた。なのに、たまたま体制が変わったというだけで自分の居場所が突如なくなったのだ。理不尽に思えて仕方がない。少し樋口に近すぎたか、そんな悔恨もないことはないがそれでも落ち度は何一つないはずだ。それなのに他の三役との処遇差は理不尽極まりないではないか。近すぎるということは運命を共にする覚悟がいった。
権力トップの交代はボード体制の全てを一新してしまう。それはマル水に経営の社是として何年も前から継承されていることだから理解できる。しかし、そのやり方には、あまりにも権柄尽く過ぎるものがあるようで仕方がない。
そんな不遇の中でも、やらなければならない苦難の時期だ。
そんな不安が時々本社人間を呼び出させていた。
平田はそんな心情がわからないでもなかったが、それとこれとは別のものだ。今は考えさせてくれと曖昧に濁すしかなかった。

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