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 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.7-46

素晴らしい仕事

更新 2016.06.27(作成 2014.12.25)

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第7章 新生 46.素晴らしい仕事

「この辺は村米制度でガッチリ固まっております」
「はい、それは昨日伺いました」
「広島にも酒米はいくらでもありましょうに」
「はい、そうかもしれませんが普通に作ってはいかんのです。私は金賞を取りたいのです。そうしないと銀嶺は蘇りません」
川岸は不気味さを押し返すように、居住まいを正しつい力のこもった語り口になった。
「なるほど、そうですか」
宗治はそう言って言葉を切り、俯き加減になにやら考える様子だ。
老成し人生の達人と呼ばれるような領域に入っている宗治は、ほとんど表情を変えることなく沈思黙考しているが恐らく猛烈な勢いで頭の中は回転しているのであろうことが察しられた。
きりっと引き結ばれた口元に、川岸も言葉を繋ぐのをためらった。
やがて宗治は徐に立ち上がり、内線受話器を取った。
「○課長か、△主任に来てもらってくれ」
名前ははっきりと聞き取れなかったが誰かを呼んでいるようだ。
「どっちでもいいが、そりゃできたら課長がいいに決まっとるやろ」
恐らく若い社員であろう。それくらい判断できんのかと叱っている。
宗治は戻って来た。
「もうしばらくお待ちください」
「すみません。無理なお願いしまして」川岸は深々と頭を下げた。
「こちらには何時来られたのですか」
「昨日の朝広島を出まして昼過ぎに三木市に着きました。三木市からこちらに来るときはさすがに震災の影響を心配しました」
「はい。あの時はこの世の地獄を見ました」
「はい。本当によくここまで回復しました。神戸の皆さんの頑張りでしょう」
「いえいえ、皆さんのおかげですよ」
当時の痛ましさはすっかり姿を消しているが、まだ空き地のままのところが街中にある。
そこにノックの音がして製造服姿の中年の男性が入ってきた。
「うちの製造課長です」と宗治社長が紹介した。
「武野です」と素早く名刺を出してきた。
川岸は「銀嶺酒造の川岸です」と社名から名乗った。
そうしないと相手はこちらが誰だかわからないだろうと咄嗟に思ったからだ。
「課長、今山田錦はどれくらい残っているかね」
「まだ50俵ほど残っておりますが、どうされるのですか」
「10俵ほどこちらの銀嶺さんに譲ってくれんかな」
「えっ、そんな……」
製造課長は、そんなことしていいのかと言いたいのだろう。一番大事な事業の種を、他の酒屋に融通するなど恐らく初めての経験に違いない。
「ええんじゃ。そりゃ何かと不便なこともあるやろうが、なんとか工夫して凌いでくれ」
宗治社長は、まだ何か言いたそうな武野の言葉を遮って言い下した。
課長は不承不承下を向いたまま承知した。
酒は雑菌が入らないように冬の寒い時期に仕込まれる。特にいい酒ほどそうだ。
「うちはもう仕込みが済みましてな、甑倒し(こしきだおし:仕込みの完了を祝う行事)の準備をしておるところですわ。ですからもう要らないのですよ。まあ、これじゃ足りないでしょうが最初の試みとしてはこれくらいがいいでしょう。あまり最初から気張りすぎてもよろしくありません。まずはここに集中してみてはいかがですか」
宗治は、若い川岸が力みすぎて勇み足にならないようにとの老婆心から、やんわりと釘を刺した。
だが、この話は嘘だとすぐわかった。JAの吉川支店の担当者が、「全量納め切って今ごろは仕込みの真っ最中でしょうよ」と言っていたように、これほどの規模で既に仕込みが終わるわけがない。それに一等米を50俵も残しておいて終わったはないだろう。素人の自分でもわかると川岸は思った。
宗治が恩着せがましくなって、川岸に気を使わせないようにとの咄嗟の狂言である。
川岸は涙が出るほど嬉しかった。
「ありがとうございます」
川岸は欣喜雀躍するような気持ちを隠し深々と頭を下げた。
「なあに、今度は私たちのほうでお手伝いすることがあってもいいやろ。なあ、武野課長」
その顔は、隣で渋い顔をしている製造課長のほうに向けられた。
川岸はなかなか顔が上げられなかった。
「そんなに恐縮することありません。武士は相身互いということもあります。あたりまえのことです」
宗治は、そんな川岸を
“いつか銀嶺が蘇り、自分たちの地位を脅かすほどに立派な酒を造るようになればいい刺激になって酒造界も発展するのだが”と慈愛に満ちた眼差しで見下ろした。
「じゃが、今年はそれで凌いだとして来年の分が大変ですよ」
「はい。それも杉山課長にお願いしてきたばかりです。調整してみましょうと言ってくれております」
「おやおや、手回しの早いことで」
川岸は頭を掻いた。
「あの男なら何とかしよるやろ。私からもよー言うときましょう」
「何から何まで、お礼の申し上げようもありません」
まさに僥倖だ。偶然飛び込んだ一軒の農家さんから、髪の毛一本ほどの幸運の連鎖が山田錦の入手と来年の手当という奇跡を生んだ。
そこには後ろを向く者は、誰一人いなかった。
人と言うのは時として素晴らしい仕事をするものだ。何かを成したいという意思を持つ者が集まれば何かが生まれる。

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