更新 2014.11.14(作成 2014.11.14)
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第7章 新生 42.灘五郷
営農推進企画課長の杉山は44〜45才のいかにも事業畑で仕事をしている者らしく、少し日焼けした浅黒い顔に元気を漲らせてにこやかに川岸を迎えてくれた。
川岸は、応接室に入ると杉山に遅れまいと急いで名刺を出した。
「川岸でございます。突然お伺いしまして申し訳ありません」
「いえいえ、構いません。仕事です。杉山です」
名刺交換が済むと杉山はソファーを勧めた。
「さて、先ほど少し聞きましたが詳しくお話してくれませんか」
「はい。私どもは広島の銀嶺という銘柄の小さな造り酒屋です」
「そうですね。この辺ではあまり聞きませんね」
「はい。広島近辺で細々とやっているものでして」
川岸は銀嶺が辿った運命を説明した。
「そうですか」
「ところが、親会社の方針でもう一度銀嶺を立ち上げようということになりまして」
「うん、うん」
杉山は頷きながら聞いていた。
「最初蔵買いしまして販売店に流してみたんですが酷い不興を買いまして……」
そう言って川岸は、面目なさで汗を拭いた。
「こりゃいかんと、こんな事をしていたらこりゃ酒屋じゃないと思いました。銀嶺を立ち上げるにはいい酒を造って皆さんに認めてもらわないことには成功はないと思ったわけです」
「なるほど。そりゃそうでしょう」
「いい酒を造るためにどうしても山田錦が欲しいわけです。それで、こうしてやってきたわけでありますが、どこに行ってももう一粒も残っていないと断られました。杉山さんのところに行けば何とかなるんじゃないかと伺いまして、一縷の望みを抱いてやってまいりました。杉山課長、なんとかお願いできませんでしょうか」
「なるほど。事情はよくわかりました」
杉山は真剣に受け止めてくれたようで、先ほどまでの愛想の良い笑顔は完全に消えていた。それ程生半可な話ではないことを示唆している。
「しかし、それはちょっと私でも難しいですね」
“やっぱりか”
川岸は、微かな希望を絶たれ肩の力が抜けるようだった。
「この辺は古くからのしきたりがありましてね」
「村米制度ですね」
「はい、そうです。ご存知ですか」
「いえ。つい先ほど教えてもらったばかりです」
「ここの山田錦はこの辺の名産品というよりも町そのものです。山田錦がなければこの灘地区の存在がありません。それくらい大事なもので、地域を上げて自然環境、水資源、村米制度、それら全てを全精力を傾けて維持しています」
灘地区は、六甲山から湧き出る都賀川、石屋川、住吉川、天上川、芦屋川と5つの水系があり、その水系ごとに西郷、御影郷、魚崎郷、西宮郷、今津郷と5つの酒郷が生まれ、灘五郷と呼ばれている。
そこには灘五郷酒造組合があって、米作り、酒造りのための環境保全には全精力を注いでおり、酒造りに害をなすような自然破壊やそれに繋がるような要素を様々な観点から極力取り除くよう監視活動を続けている。
この組合の中に水資源委員会があって、この地区における水資源に影響を及ぼしそうなビル建設や土木工事は、水資源委員会と相談しなければならないことになっている。
「町全体が米、水、酒、という一つの結びつきの上に成り立っておりまして、買い取ったお米は全量蔵元へ納めることになっております。私どもと言えどもそこに歪を入れることはできません。この辺にはもう一粒も残っておりません」
「やはり、そうですか」
川岸は、やはり諦めるしかないかと思い始めた。
“今年の分は仕方がない。他で手当てしよう。しかし、せめて来年の分くらいは目途を付けておきたい”
「それでは、来年の分についてはいかがでしょうか。私どもの分も作っていただく事はできないでしょうか」
「あー。それもそう簡単ではないのですよ。まあ、農家さんに当たって調整しないとわかりませんがね」
「えっ。来年の分もですか」
川岸は思わず口をついて出そうになった。
この村米制度ってどれほど硬い制度なんだ。わが社の1t分くらい町全体で捉えればすぐにでもできるじゃないか。川岸には不可解だった。
来年の分と言っても、年が明けているので正確には今年の分だ。今年の秋の収穫分だ。
これから作る分なら少し多めに自分の分も作ってくれればいいじゃないか、と身勝手に思い込んでいる。
川岸の釈然としない様子に、杉山は諄々と説き始めた。
「この辺の米、山田錦の他、酒米の取引量は毎年安定しております。こちらの農家さんが作らないなら、あちらの農家さんが作ってというふうに、農家さん同士の個々の調整は私どもがやっておりますが、蔵元さんに納める村全体の作付けは一定のものです」
それくらいは川岸にもわかる。だから来年は少し多めに作ってくれたらいいと思っているだけなのだ。
だが、杉山の話はそんな川岸の思惑を簡単に覆した。
「ですから農家さんも若干の余裕は残しながらも、必要以上に種籾を残しません。ですからそれ以上のものは作れないのですよ」
“あっ、なるほどそうか。制度のせいばかりじゃなかったのか”
川岸は、ここでも自分の素人振りを痛感し、ばつが悪かった。
「種籾以外は全量蔵元に納めますが、蔵元へは1俵単位で納めますからそれ以外の端数が残ったりします。その分くらいが増産の糊代になりますかね。収量を上げようと思えばそれらをあっちこっちかき集めて、いろいろ工夫して2、3年計画的にやらないとできないんですよ」
“なるほどそうか”やっと合点がいった。
「それに田圃の面積も一定でしょう。山田錦を多く作ろうと思えば他の作柄を減らさなければならなくなります。農家にしてみれば不便なこともあるわけですよ」
なるほどそうか。川岸は全く声もなかった。ただ力なく頷くしかなかった。