更新 2013.10.25(作成 2013.10.25)
| 正気堂々Top |
第7章 新生 4.例の件
竹之内敏夫が顧問として赴任してきて間もなく、やはりこの人事が社長就任を前提にしていることが公然となった。
しかもこの人事は禅譲ではない。親会社による子会社統治のための戦略人事である。こういう場合、前任者の待遇や権限、役割を制限するような作用が働くのはやむを得ない成り行きであろう。
およそ4カ月前の平成8年9月のことである。新人事制度が完成し、役員会での最終プレゼンテーションに丸山が奮闘しているころである。
マル水の会長室では会長の藤野と社長の坪枝が密かに会談していた。
ちょうど2年前、樋口が大西を後継者にしたいという要望をマル水として呑む相談をしていたその時と同じ構図である。このとき、もし必用とあらば中国食品を手放してもいいという腹積もりも確認し合っている。
それから2年。マル水は経営再建のために、収益構造の抜本的再構築を急ぐことになった。マル水の事業モデルが時代にそぐわなくなってきたからだ。市場では、事業モデルの陳腐化を反映して株価は200円を切っている。
バブル崩壊後、各企業ともサバイバルをかけてコスト削減や事業再編にやっきになっている。雇用面においても時間外や賞与のカットはもとより、リストラや外部戦力化が必死で行われた。家計のインカムは確実に減少した。
それを補うため主婦のパート勤めが広まったことと、同時に、女性自身も1人の社会人として自覚し自立心が目覚めたことから、女性の社会進出が急速に進んだ。グローバル化の波は経済のみならず女性の意識もグローバル化していった。法律の後押しもある。さらには、その間隙を縫って男から女へのコストの置換を図ろうとする企業の目論見もその陰で垣間見える。
女性の社会進出は、女性の家事負担を軽減しようという社会テーマを生んだ。
家電の代表格である洗濯機、冷蔵庫、テレビ、掃除機、食器洗い機、電子レンジなどは、マイコンの進化で高機能化と大容量化を果たし、主婦の家事を軽減することで女性の社会進出を後押しした。
食事も簡単で美味しく食べられる時間短縮型の様式が求められるようになり、いつでも美味しく食べられるファーストフード店やファミレスが賑わうようになった。
家庭向けでも簡単に調理できるファストフードが確固たる市場を確立し始めた。チンするだけ、温めるだけで本格的料理が食べられる商品が重宝されるようになった。これらはもはや冷凍食品などではない。冷凍料理である。
マル水はこの分野で出遅れた。これまでのビジネスモデルは肉や水産物などの第1次産品を冷凍して市場に送り出すだけであったが、それではもうやっていけなくなってきた。メイン事業である大型外洋漁業とその冷凍加工事業も、近年の資源枯渇と世界的海洋資源保護の潮流から漁獲量が急速にしぼんできた。このままではジリ貧を辿るだけである。育てる漁業への進出が要る。
時代の変化に対応していかなければ生き残れない。野菜や果物も視野に入れ、2次加工食品、3次加工食品を開発することが急務となっている。真空パックや冷凍技術も進化した。
藤野と坪枝はそれをどうやって進めるかを話し合っているのだ。
ここまで、経営効率の向上を目指して関係会社の統廃合もかなり進めてきた。
「もはや事業の再構築が急務となりました」
「うん。大いにやりましょう」
「ただ、商品の開発から製造設備の建設までかなりの資金が必要です。それに3年後には社債の償還期限が参ります。資金はいくらあっても足りない状況です」
「うーん。借り入れか、増資か」
「借り入れはとても無理です。今の銀行さんは貸してくれません」
「それもそうだな。貸し剥がしなんて皮肉られている状況だからな」
「増資だってバブルがはじけた今、投資家の皆さんの懐は多いに痛んでいます。余程の金利を積まないかぎり、さらに投資をしようなんて気は起きないでしょう」
「うーん、そうか。それじゃ、いよいよ……」
「はい。以前お話しました例の件を具体的に考えていこうと思います」
「うん、そうか。ついにその時が来ましたか」
「はい。ここで躊躇していては取り返しのつかないことになりそうです」
「そうですか。それで、もし今手放すとしたら一体いくらになるのかね」
中国食品はこれまで2回の転換社債や第三者割当増資、株主への還元策として無償増資を数回繰り返しており、発行株数90千万株、資本金45億円になっていた。その内マル水の持分は42%の37800千株である。
株価は一時1000円を超えていたが今は800円チョイというところである。
800円としても300億円を越える。
坪枝はいつも頭から離れない数字であり、淀みなく応えた。
「300億円を超えるくらいですが、いざ売るとなりますと買い叩かれるでしょうから少し割り引く必用があります」
「売り急いではいかん。相手が欲しいと言う売り方を模索しようではありませんか」
「はい、その通りです。資金的にも、もう少し欲しいですから。ただ、このまま外部環境が悪化しますと相場が崩れる懸念もあります」
「うん。苦労かけますね」
「すぐに成就するということではありませんから、いざという時のために早めに手を打っておきましょう」
「うん。そりゃそうだ。お任せしますからどんどんやってください」
藤野も坪枝も、この事を2年間も考え続けてきており、そのたびに中国食品を手放すしかないと繰り返し思い込んでおり、思案はもはや揺るぎない確信に変わっていた。
「だが、誰にやらせる。いい人材がいるかね」
「はい。それができる人材は竹之内敏夫君しかいないと思っております」
「竹之内君ですか。うーん」
藤野は唸った。
「なにかありますか」
「もったいなくないかね。彼は君の右腕だろう」
「はい。だからです。ただ売るだけなら他の者でもいいのですが、今回はいかに高く売るかの戦略を考えなくてはいけませんから、彼くらいの秀逸でなければ務まらないかと考えます。それに」
坪枝はさらに言いにくそうにしながらも先を続け、胸の内奥を語った。
「彼には気の毒なのですが、彼は私の後継には成り得ないのではないかと思っております。私の後はもっと若い人がなるべきです」
その言葉の奥に、“私はもっと長く社長を務めます”という決意がこもっていた。
藤野は心に引っかかったが、“社長は坪枝君だから”とその件には目をつむり角が立たないように話題を転じた。
「後は樋口さんだけだな。もう何年になる」
「10年です」
「彼は私の代わりに出されたようなものだからな。意地もあってガムシャラにやってこられた。愛着も強いだろうね」
「しかし、わが社のためです。わが社のためにこそ尽くしてもらわなければ困ります。それに、10年ともなればもう十分ではないでしょうか。気力体力ともそろそろ限界かと思います。これ以上はかえって老害がひどくなりそうです」
禅譲人事ならば後継者指名に前任者の意向が反映するが、樋口は大西指名という形でそのカードを既に使い果たしている。2年前のことだ。
その時、藤野と坪枝はこの時の来るのを想定して樋口の要求をすんなり呑んだ。