更新 2016.06.16(作成 2014.09.25)
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第7章 新生 37.自立支援
「そうとも限りませんよ。賃金は賃金、退職金は退職金の適正水準を追求していけますから絶対切り離しておくべきだと思います。今のままだったら賃金を上げたくても退職金に跳ね返るという理由で動かせないじゃないですか」
「しかし、会社は切り離しておいて退職金の水準を置いてきぼりにしようとしているんじゃないんですか」
「そんな情けないことを言っちゃいけません。賃金にしても退職金にしても私たちは引き下げることばかりを考えているわけじゃありません。組合だってそうでしょう。高ければどこまで高くてもいいってものじゃないでしょう。会社の収益力や規模に応じて適正な水準を追求して、会社の健全な運営と発展を求めるのが組合とか私たち人事部の役割じゃないんですか」
「適正な水準というのが難しいじゃないですか」
「はい、そうですね。そのためにあなた方組合があって交渉がある。私は昔樋口会長からこう教わりました。交渉は相手をやり込めることが目的じゃない。置かれた状況でこれしかないという妥結点が必ず1点ある。それをとことん突き詰めていくことだと。そのために収益力だけじゃなく、わが社とは直接関係ないような世界の動向や国内の政治経済の動きまでを観察して、認識を共有しているのです。回答の水準が高いとか低いとかに目が行きがちですが、あるべき姿を議論しましょうよ」
「そうは言っても会社はいつでも押さえにかかります」
「それも少し違うのじゃないでしょうか。押さえにかかっているのじゃなくて、会社は皆さんより少し先が見えて少し広い世界と物事の隠された裏の部分が見えているだけでしょう。つまり経営の責任とリスクを多く負っているだけです。その分組合より少し低い見積もりにならざるを得ないのです」
「だからいつも低く押さえられるんですよ」
「あなたは執行委員でしょう。しっかり勉強して実力行使をしないで済むように会社の見解を論破してください。教条的なことを言うばかりじゃ会社は動きません。会社をウーンとうならせるような案を出さないと……。坂本委員長を見てください。会社の誰にも負けないように、判断を過たないように物凄い勉強しているじゃないですか。今や社内一の博覧強記だ」
平田はつい先日新田から言われたことを思い出しながら同じようなことを言っていた。
「私はね、最近の会社と組合の合意点について思うのです。力の均衡点じゃなく高い次元での決断点だと」
「……」
そこに坂本がもういいだろうと割って入った。
「退職金はそういう方向に行くのは間違いないね。その後で確定拠出型年金の導入を考えとるんやろ」
「ウーン。それは今、政府のほうで法的整備を準備中でもう少し先になるでしょう。それにわが社の社員にそんな財テクの知識があるとも思えませんから私は慎重に考えています」
「しかし、自立を標榜しているわけだから導入せんと矛盾しませんか」
「うん。自分で運用したいという声が多くなれば考えます。そのほうが会社も助かりますからね。しかし、野獣の原野に社員を突き放すようなことにならないかと心配です。まあ、市場の好転が先でしょう」
坂本はうなずきながら、「世の中どんどん変わりよるからね」と付け足した。
「セカンドライフ支援制度はどうするん」
坂本はそのことの地ならしも考えての発言だ。
「中身を充実させようと思います」
「どれくらい」
「うーん。それをここで言うのはちょっと無理があります。あくまでも私の心積もりというか私案ですから、もし漏れたらこの案は必ず潰れます」
「そんなこと言やーせんよ。大体の水準だけでいいよ」
「逆にあなた方だったらいくらにするのが適正だと思いますか」
平田は坂本じゃなくてその係長の顔をのぞいた。
これには一執行委員の立場では答えられない。彼は黙って息を呑んだ。
「3本やね」
坂本が指を3本立てて平田を見返した。
それに平田は黙って笑い返した。
「それくらい出さんと意味がないやろ。会社は渋るだけじゃ効果が出んよ。辞めたいと思う人間は結構いると思うよ。楽にしてあげるのも会社の役目よ。ヒーさんが頑張りんさい」
組合委員長の発言としては物議を醸すような発言である。一般的にはリストラと言われるような政策だが、平田がけしてリストラにならないような仕組みと運用で仕掛けてくれると信じてのことだ。
「そんなに会社が出すんですか。それはもうリストラじゃないですか」しかし、隣に座っていたその執行委員は驚いたように反応し、その言い方にはリストラそのものだと断じる語感がありありとうかがえた。
「リストラはしちゃいけませんよね」
「あたりまえじゃないですか」
「今、わが社にはセカンドライフ支援制度がありますが利用者は毎年10名前後です。これを多いと見るか少ないと見るかは見解の分かれるところでしょう」
その執行委員は判断をしかねるように首を少し傾げた。
「しかし、自分の人生設計を持っている人は結構いるようだし、会社に不満を持っている人もいるようです。辞めて別の道を歩きたいと思っているんだが1千万円じゃ不安のほうが先に来て踏ん切りがつかないのと違うかな」
「私の周りにも何人かいますよ。田舎に帰って農業を継いで親の介護をしたいという人が」
その係長もそれは認めた。
「会社に不満タラタラで残ってもけしていい仕事はできないし、この先もきっといい事はないでしょう。それよりも踏ん切りがつくだけの手元資金をもらって第2の人生を歩いたほうがどれだけ幸せかわかりません。それを支援するのはリストラでしょうか」
「……」
「自立した働き方を提唱する人事としては、そんな生き方を支援する制度を提案するのも私の仕事かなと思います」
「そのために会社は3千万円も出すんですか」
その質問には答えず平田は制度の趣旨を続けた。
「不満があるわけじゃないけど、やりたい夢を持っている人もいます。だけど60の定年してからでは体力気力に不安が募ると思っている人もいるようですよ。そんな人には積極的に支援したいじゃないですか。私は自分だったらいくらあれば辞めるかと思う額を提案しようと思います。会社が出すんじゃなくて出させましょうよ。出させると考えたらそれはリストラではなく獲得した権利でしょう」
こう言われてなるほどと思ったのだろうか、その執行委員は黙ってしまった。
「私は絶対にリストラはしてはいけないと思っているんですよ」
「そりゃ、そうよ」
坂本も強い語気で肯定した。
「会社に肩を叩かせないで辞めたい人が辞めやすいようにする。今のセカンドライフ支援制度も自立支援制度に呼び名を変えて、あくまでも自主自立を支援する制度にしたいんです」
「そのためには1千万円や2千万円じゃだめよ。ヒーさん」
「……」
「いくら出すかわからんけどそんな額で辞めさせていくんやから会社は冷たいよね」
その執行委員は残念そうに呟いた。
遂に出た。「冷たい」。そうならずに会社のいびつさを修正し、健全性を維持しょうと苦心しているのだ。
「辞めさせるんじゃない。第2の人生に夢を持っている人を支援しょうとしているんです」
「でも、結局辞めていくよね」
「考え方でしょう。その人にとって会社にそれだけの魅力しかなかったか、その人の夢が大きかったかでしょう。そう考えなければこの制度は提案できません」
「そうやろね。ヒーさん頼むよ」