ナビゲートのロゴ
ナビゲート通信は主な更新情報をお届けするメールマガジンです。ご登録はこちらから。

下記はページ内を移動するためのリンクです。

現在位置

 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.7-38

山田錦

更新 2016.06.16(作成 2014.10.03)

| ←BACK | INDEX | NEXT→ |

第7章 新生 38.山田錦

1998年3月、春闘の賃金交渉が一服ついたある日。平田は銀嶺酒造の社長に就任している川岸から呼び出された。
「今、退職金の見直しをやっとるんやろ。我社(うち)の制度について相談したいんで、忙しいとは思うんじゃがちょっと来てくれんかな」
銀嶺酒造は発足当時に比べると随分会社らしくなってきた。
川岸は徹底的に会社の外容を整え、製造設備のメンテナンスをやった。敷地の草を毟り、伸び放題の垣根を剪定し、ペンキの剥がれを塗り、製造設備はオーバーホールをやり、サニテーションを丹念にやった。
そのせいで会社は見違えるように生まれ変わった。食品会社は外も中も清潔でなければ人が相手にしてくれない。従業員もこのような作業をこなすため、数名のパート従業員を雇っていた。
川岸は銀嶺を立ち上げたものの売る酒がない。そこで営業時代に培った伝手を頼りにある地方の造り酒屋の酒を蔵買い(桶買いとも言う)して販売ルートに乗せてみた。酒販店はもとより、スーパー、流川の居酒屋など中国食品の営業時代の人脈を尋ね歩いた。
だが、酒販店の評価は散々だった。
「銀嶺さん、あのね。この酒は昔の銀嶺さんの酒に比べたらとても飲めませんね。雑味が多すぎます。どこかで買い込んでこられたんでしょうが、こんな酒を売っていたら二度と誰も振り向いてくれませんよ。それでなくても海外からいいワインなんかが入ってきて酒は衰退気味です。安かろう悪かろうじゃ話になりません」
その道のプロの舌は厳しかった。彼らもまた生き残りのサバイバルゲームを必死で戦っているのだ。拙い物を客に出すわけにはいかなかった。
川岸は顔を真っ赤にして、酒造に対する自分の不明を恥じた。
「今の銀嶺さんの立場で信用を回復するには、鑑評会で金賞を取るような酒を造ってみんことには相手にしてもらえませんやろな。目先のことに囚われず、初心に帰って一から出直してみられたらいかがですか」
銀嶺のことを親身になって考え、的確なアドバイスをくれる販売店の主人もいた。
ただ、川岸にしてみれば立ち上がったばかりの会社である。なにがしかの売上が欲しかった。会社を整備するための人件費や資材費は出て行くばかりで収入となる売上が1銭もない。何でもいい。何か売り上げさえ立てれば格好がつく。そう思って安い酒を仕入れてみたのだ。
だが、そんな安易な考えは無残に打ち砕かれた。
“銀嶺の信頼を取り戻すにはどうすればいいか”
必死で考え抜いた末、やはりいい酒を造るしかないと決心した。
「根本から取り組もう」
川岸は、心機一転取り組み方を考え直した。
今は相談し、戦略を立ててくれる身内は誰もいない。一応、中国食品から製造課長と総務課長が送り込まれているが経営戦略を練ってくれるような資質ではない。また、社員3人のこの陣容ではその役割は自分が担うしかなく、自分一人で決断するしかなかった。
「まず杜氏だ。彼らが力だ。彼らこそどうしたらいいか、教えてくれるはずだ」
川岸は、昔いた杜氏を島根県まで訪ねて行き必死で口説いた。
「そりゃあ、まあ。昔世話になった銀嶺さんがもう一度やり直そうと頑張っておられるんだから、戻るのは戻ってもいいが一体造るものがあるんですか」
川岸は杜氏の言っている意味がピンと来なかった。造るものと言えば酒だろう。
「はい。もちろん酒です。酒以外にないじゃないですか」
相手の言っていることに的確に答えているか戸惑いながら、自分より一回り以上も上の人生の先輩に丁寧に応じた。
「そりゃ、酒には違いないでしょうよ」と杜氏は可笑しがった。
「すいません。造るものといえば酒かと思いまして」
「そうじゃなくて、それにはまず、酒米が要るでしょう。その酒米があるかと言っとるんです。それがなけりゃいくら戻っても仕事にはなりません。機械は皆で磨けば明日にでも立派になりよるが、酒は生き物ですからな。いい米を使って魂を込めて造らにゃいいものは出来ません。米に目途が立ったら戻ってもいいですよ。じゃがそう簡単にはいかんでしょうな。余程性根を据えてかかりなされんと」
杜氏は子供でも諭すかのように、それでいてそんな目途もたたずに来たのかと淋しそうな色を滲ませて言い聞かせた。
“そう言うことか。米か”
川岸はこの段階ではまだその難しさの程度がよくわからなかったが、杜氏の言葉を信じ、早速酒米の仕入れに走った。それ以外に仕事はない。

酒造米の王者は山田錦だ。それも、兵庫県三木市吉川町あたりのそれだ。六甲山の北西部にあたる農村部だ。
この地域の山田錦は、既に酒造米の王者として不動の地位を確立しているが、それに安住することなく生産者、行政、学術研究者三位一体となっていい米を作るための更なる研究がなされている。それだけではない。環境保全のための、特に水資源保護のための活動には力を注いでいる。
酒には麹が必要だ。この麹を造るとき米に麹菌をまぶし室の中で発酵させて育成するのだが、米をそのまま使ったのでは米に含まれる油脂分やタンパク分が邪魔をしていい酒ができない。これらの成分は米の表面に多く含まれており、これを取り除くために徹底的に精米するのである。最後に残った芯の部分を心白(蔵言葉では「目ん玉」)と呼び、これを使う。精米すればするほど研ぎ澄まされた心白ができ澄んだ酒が出来る。山田錦の場合この心白の発現率が20%くらいまで研いでの仕込みに耐える。ほかの米ではここまで精白すると粉々に砕けて使い物にならないそうだ。
発現率だけでなく味もいいのであろう、山田錦の酒米としての評価は揺るぎないものがある。
山田錦を使わなくては鑑評会で金賞は取れないとも言われており、山田錦を使った酒はそもそもの優位性から1部、2部と別に品評されるくらいだ。
酒造りは初めてだが酒好きの川岸は、酒米は山田錦だということくらい知っている。
川岸は年が改まった冬の日、この山田錦を求めて兵庫県まで買い出しに出かけた。もちろん初めての地であり当てなどなかったがじっとしておれなかった。蔵買いの酒を酷評されたことが川岸を兵庫まで駆り立てた。はやる気持ちを抑え、冬の山陽自動車道を一人ひた走った。

「正気堂々」についてご意見をお聞かせください

▲このページの先頭へ

お問い合わせ・ご連絡先
Copyright © 1999 - Navigate, Inc. All Rights Reserved.