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 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.7-14

全否定

更新 2014.02.05(作成 2014.02.05)

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第7章 新生 14.全否定

樋口は皆に惜しまれながら去っていった。今の中国食品の業容は須く樋口の功績と言っても過言ではない。過剰投資で組織は肥大し、赤字に転落した会社は倒産の危機すら懸念されていたが、樋口はその会社を誰もがアッと驚くような政策でダイナミックに建て直し、しなやかに躍動する筋肉質な組織に甦らせた。社内の誰もが中興の祖として尊崇した。
樋口が会社建て直しの過程で発揮したカリスマ性は群を抜いており、まさに孤高の人だった。
その樋口が去っていく。一時代の終焉である。

会社は新しいボード体制でスムースに立ち上がった。
竹之内の時代になり、第2ステージの幕が開いた。
人事部では部長として椿が就任したが、その他のメンバーに変わりはない。
業務は、ちょうど賃金改定交渉を丸山と新田で完結させたところであり、あとは昇給事務作業が残っているだけであった。
制度移行して初めての賃金改定である。移行時に昇格した者は賃金が大きく上がっているはずだ。さらに今回の賃金改定で評価が良ければキャンセル給が上がる。
平田はこれでどんな反応が現れるかと期待と不安でいっぱいだったが、問い合わせは1件あったのみで思ったより平穏に過ぎ、賃金の差額計算や支給、昇給通知の辞令発行、説明パンフレットの作成など、昇給作業は程なく終わった。
いよいよ、関係会社の制度改定と退職金・年金制度の改定に取りかかるときである。
平田は目論見書を作成し椿に許可を求めた。
そこには、取り組まなければならない背景や大まかな方向性、取り組み体制、スケジュール、中国食品としての関わり方などを簡潔に認めていた。
ところが、椿の反応は意外にも冷やかなものだった。
「これはいいよ。あんたが関わらんでもいいやろ」そう言って目論見書を突き返してきた。
「エッ。それじゃどうするんですか」
まさかの返答に平田は驚き、思わず問い詰めた。
「まあ、あんたがやらんでも彼らに任せたらいいんじゃないか。あんたが関わるからおかしなことになる」
明らかに平田に対する挑発的嫌味である。
平田はムカッと来た。
「どういう意味ですか。何かおかしなことでもありますか」少し気色ばんだ。
「うん。まあ、いろいろあるんじゃない?」
「だから何がでしょうか」
「まあ、いろいろよ」
椿も面倒くさそうに突っぱねているが、ハッキリと論理立てては返ってこない。ムードや雰囲気だけで考えるとこうなる。要は平田が嫌いなのだ。何がと言われてもわからない。気が合わない。虫が好かない。それだけのことだ。
人の好き嫌いなんて単純なものだ。ちょっとした考えの違いや、仕草やクセのようなものでも全人格を否定したくなる。椿もそうだ。直接平田と深く関わったことなどないが、周りの者から不満や影口を聞かされるうちに椿の中で平田の人物イメージが作られてしまったのだ。
いや、人物イメージではない。平田への嫌悪という感情が植えつけられてしまったのだ。
歓迎会以来、ずっと平田無視は続いている。
「それじゃどうしましょう。放っといていいですか」
「ああ、いいよ。放っときんさい」
「そうですか。それじゃ、退職金はどうするんですか」
「関係会社の制度が出来るまで待てばいいやろ」
椿は“俺は人事部長だ。そのうちお前を動かす。制度はそれからでいい”と考えていた。
人事制度提案時に退職金も一体でポイント制に改定する。今の制度は陰の賃金の運用で凌ぎ、制度完成を急ぐ。と公言したことなど完全に飛んでしまっている。シャドウの賃金なんてそう何年も運用するわけにはいかない。せいぜい2、3年しか耐えられない。それは、現実とのギャップが段々と大きくなり、新制度が目指した理念が歪められていくからである。仕事より感情が優先した。
制度に思い入れのない人は、こうした本論から脇の、しかし大事なことを軽く見てしまう。すると理念の徹底が図られなくなる。
しかし、今更そのことを整然と説明する気にはなれなかった。
「いつになるかわかりませんし、わが社の制度に乗れるものになるかどうかもわからないじゃないですか」
「乗れるよ。それにそんなに遅れはせんよ。人を馬鹿にせんほうがいいと思うよ」
「別に馬鹿にしているわけじゃありませんが、やはり慣れとかスキルとかあるでしょう」
「それが馬鹿にしているということよ」
平田はなぜそれが馬鹿にすることになるのかわからなかったが、そこまで言われると「あっ、そうですか」と開き直るしかなかった。
「それじゃ、放っときますか」と、他人事のように吐き捨てて自席に戻った。
内心では、きっと他の誰かにやらせるんだろうと思いながら腕組みをし、憮然として天井をにらんだ。それはそれでいいが、制度の行く末が心配だ。
近くで話が聞こえた周りの者たちが心配そうに平田を見つめている。部屋中にざらついた空気が流れた。
平田と椿との険悪なムードもそうだが、人事制度の行く末はどうなるのかと危惧しているのだ。それは平田とともに多少なりとも制度立ち上げに関与してきた者たちの健全な憂慮だ。
改めて考えると無茶苦茶腹が立ってきた。これまで一生懸命やってきたことは一体何だったのか。何がおかしいというのか。
椿は取締役になったことで少し気負いこんでいるようだ。制度を変えるってそれほど簡単なことではない。自分が選ばれたことで自分は正しい。だから平田は間違っている。平田を使ってはいけない。そんな隘路にはまっているように思えた。
そんなことがあって平田は眠れぬ日を過ごすようになった。
平田も人間だ。期待がなくなると何にもやる気がしなくなった。むしろ得も知れぬ不安ばかりが込み上げてくる。
それでも退職金や年金のありようについて調べようと、いろんな資料を集めてみたりするものの本気で読む気にならなかった。いつの間にか上の空で文字を流している。
“来年は転勤だな”
そんな妄想が平田の不安をさらに増幅する。
以前にもあった。人事に来たばかりのときだ。自分に人事なんてやれるかどうか、たまらない不安に陥ったときがある。
だがそれは、仕事の悩みだ。
「お前の考えがだめなら会社がお前を首にする。それを覚悟で制度に取り組め」と諭された。
そのときは「だからお前を信じて任せている」という信頼がバックボーンにあった。だからガムシャラに打ち込めた。
人は期待されるから頑張れると同時に、期待されたいという願望を持っている。それは認められたいという人間の究極の欲求だ。
だが、今回は違う。平田の全否定だ。
これは考え方がどうのこうのというのではない。好きか嫌いかの問題だ。
何をしていても、どんな時も、漠とした恐怖が平田を押し包んだ。

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