更新 2014.02.14(作成 2014.02.14)
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第7章 新生 15.大物
人事部の運営の仕方も変わってきた。人事部全体の打ち合わせや会議となれば平田だけ外すのはあまりにも不自然だ。そこで始まったのが個別の打ち合わせである。関係部署だけ呼んで打ち合わせるのだ。これは平田の容喙を防ぐ効果がある。
確かに当面は個別最適の政策は出されるが、こっちの部署、あっちの部署とそれぞれが自己最適を出し続けるうち、トータルの整合性で欠落や矛盾が出てくる。そもそもトータルのポリシーが確立されているのかどうかもあやふやだ。政策にいろいろな瑕疵が目立ち始めた。
それでも気負い立つ新任部長は、なりふり構わず猛進する。どこかで躓くまで気が付かないのだろう。
人事部から出される政策や通達文から平田の印鑑が姿を消した。完全に平田を迂回して通達されるのである。
最初のうちはそれでも課長や担当者が、「実はこういうのを出しましたから」とそっと写しをくれていたが、本気で読む気はしない。
次第にそれも来なくなった。
平田は完全にネグレクトされ、鬱屈した日々を送るようになった。
5月の中ごろである。毎年、アユのシーズンの前には釣り部の「懇親会」が行われる。アユの育ち具合はどうかとか、どこで待ち合わせてどこに入るかとか、要は懇親と情報交換の飲み会である。
釣り部の懇親会はこのアユ前と忘年会の年2回行われる。なかなか釣りにも行けない平田であったが、懇親会にだけは努めて顔を出すようにしていた。
今日もだるい体と重い心を引きずりながら惰性のついた弾み車のように、会場となった近くの居酒屋へ出向いた。
川岸は、一度失墜した銀嶺ブランドの信用回復に連日ディーラーを駆け回り、傍らでは、錆びついた生産設備の再生作業を督励し、田舎に帰ってしまった杜氏たちの信頼回復に精根を使い、生産のための原材料の調達に走り回っていた。
スタッフも総務系と技術系の課長クラスが僅か2人しか派遣されていない。あとは近所の主婦や農閑期の農家のおじさんを数名パートやアルバイトで雇っているだけだ。自らが体を張って動かなければならなかった。
こんなエネルギッシュな動きができるのは川岸しかいなかった。
ただ、中国食品の常務取締役を務めた人物の処遇先としては少しお粗末過ぎるものがある。最低でも4、50人規模の業容が欲しいところである。
川岸もこれには少なからず不満があった。しかし、他に関係会社はないし、これがやれるのは川岸しかいない。やりがいもある。今はこれしか落ち着きようがなかった。その点において、樋口、竹ノ内、坂本の見方は一致した。
川岸は少し頬の肉が削げ落ちたようで、精悍さが際立って見えた。
ほんの7、8人の会合であるが、川岸は一人ひとりにビールを持って注いで回った。
最後に平田の横にやってきた。わざとそうなるように意識して回ってきたフシがある。平田とはゆっくり時間を掛けたい、そんな気持ちが伝わってきた。
隣にいた古参の所長を押しのけ、腰を据えてビールを平田に勧めた。
「で、どうなんかね。うまくやっとるんかね」
平田のことは既に承知しているようだった。
「いえ。もうあきません。どうしょうもないですよ」
「何を言うとるんかね。何がいかんのかね」
平田は憂鬱な気持ちを引きずりながら、かいつまんで事情を打ち明けた。
「上がだめならその上を動かせばいいんよ」
「しかし、新田さんとの関係もわかりませんし、社長の信任で取締役になったんでしょう……」
「そんなもんあるもんか。上っ面の媚び諂いでなっただけよ。命がけの箴言に勝つものか」
しかし、仮に新田に言ったとしても、陰口にとられては心外だ。新田のほうから手を差し伸べてくれれば上手くいく術もあるのだが、どうしても自分のほうからは言いづらい。それができればこんなにも悩む必要はないのだ。
「悔しいんですがね、すべての案件が私を素通りしていくんですからどうしょうもありませんよ」
「どういうことよ」
「私の知らないところで政策が出ていくんです」
「それはな、お前が大物だからだよ」
「何を仰るんですか。私みたいな者のどこが大物なんですか」
思いもよらない川岸の言葉に平田はおかしかった。からかっているのかと思ったが、川岸は表情も変えずに言った。
「大物なんだよ」また繰り返した。
平田は、川岸がなんでそんなことを言うのか意味がわからず、目を丸くしてじっと川岸を凝視した。
その眼差しには「調子に乗るなよ。増長してはいかんぞ」という戒めの含みも宿しているように思えた。
「なにも肩書が偉いとか、位が高いから大物というわけじゃないぞ。いくら位が高くても何もできない者もいれば、小人もいる」
「それはそうかもしれませんが、私が大物というのはおかしいでしょう」
「大物というのはな、存在感があり、影響力があるということなんだよ。動かしがたい底力をもっている者のことを言うんだよ。だから物事が避けて通ろうとする」
平田は自分が大物などと思ったこともない。唯一自分に大物があるとすれば、それは何事にも一途なところであろう。愚直なまでものひたむきさは誰にも負けないと思っている。丸山からも「依怙地だのう」と言われたそれだ。しかし、それだけでは大物ではなかろう。
平田がまだ納得しないのを見て川岸は話を続けた。
「小人はな、お前に負けるのが悔しいんだよ。お前に相談して自分の考えをひっくり返されるのが悔しいから無視するようになるのさ」
「そんなもんですか」
「小人はなぁ、自分の力のなさを隠して自分を大きく見せようとする。だから、自分より力のある者を敬遠して虚勢を張るのさ」
川岸は平田の苦悩がおかしのか少しニヤついている。「つまらんことで悩むんじゃのう」と言っているようだ。
「俺はなぁ、自分に知恵がないとわかっているからお前たちに助けてもらわないとやっていけんと思っていた。バカばっかりしかいないんだから好きも嫌いもない。とにかく知恵のある奴を使うしかない。上に立つ者はそうでないといかんのよ」
平田はうなずきながら聞いていたが、
「私は自分のことはどうでもいいですけど、制度がまた振れるのが残念でなりません」と悔しさを表した。
「物事なんてそうすんなりいかないさ。何事もトップ次第だよ」
川岸は自分のところの酒造会社銀嶺も今必死の再建中であり、その言葉には苦労がしみじみとこもっていた。