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超法規

更新 2013.02.15(作成 2013.02.15)

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第6章 正気堂々 72.超法規

平田は、かって後藤田より「人事は会社の心」だと教えられた。
“この事案こそまさに会社の心が試される事例ではないか。悪いことをしたのであれば規定に照らして厳正に対処すればいい。一体今回は何がいけないのか。会社の規定にほんの一行、個人の夢休暇が書き添えられていないだけではないか。現行の条文でもいい。例外措置として会社が認めてやればいいだけではないか。許すか許さないか、それが会社の心だ”
丸山から振られた平田は、
「そうですね。私は会社の懐の深さといいますか大きさが試されると思います。規定に照らせば確かに該当する項目はありませんが、規定は大勢の人間が便利に暮らすための約束を事前に決め事したにすぎません。ですから、規定にない出来事はたくさん起こります。規定にないものは全てダメということになりますと段々身動きができなくなります。これ以外の案件でも例外措置はたくさんありますから、今回も超法規的措置として会社が判断すればいいと思います。ただ今回の案件は休職期間が長いためとてつもなく無謀な申請のように思われますが、案件としては1件は1件でしょう」
と、規定から離れて精神論に置き換えた話にした。
他の者もそうだと首を縦にうなずいている。
「それじゃこれは、許可したいが認めてくれと役員会に提案すればいいか」
さっきと打って変わって、丸山の言葉にはなんだか軽く通りそうな気楽な響きを含んだものに変わっていた。
「いえ、そうじゃなくて。規定外のことですからあえて人事部が先走って見解を出さないほうがいいのじゃないでしょうか。いかが取り計らいましょうかというふうに役員会の見解に預けてはいかがですか。いくら人事部が思い入れても役員会でダメと言われればダメですから」
「なるほど。そうか」
虚を衝かれたように慌てて思い直した。
「資料はどうする。このままじゃいかんやろ」
丸山はさすがに膨大な申請書をこのまま出す気にはなれなかった。
「柴田課長のほうで要点だけをかいつまんで審議書ふうにまとめられたらいかがですか」
「いいですよ。お安い御用で」
柴田は簡単に引き受けた。
  1.申請の理由
  2.例外事項であること。敢えて適用する条項
  3.認めた場合の社員へのインパクト
  4.却下した場合の社内外に与える影響とデメリット
などをまとめるのであろう。
「実際問題としてこういうものはどうなるんかのう」
「私は認めてあげればいいと思います。悪いことするわけではなく、名誉なことじゃないですか」平田は続けて答えた。
一方、
「そうは言っても規定にないことですからね。それをいちいち認めていたらガバナンスはメチャクチャになるんじゃないですか。蟻の一穴からとも言いますし、規律は守らなければいけないと思います」
と誰かが言う考え方も確かにあった。
この話はすでに主な人には知られており、社内に2つの見解の波紋が静かに広がっていた。
役員会も同様だった。
丸山は部内で打ち合わせしたとおり、積極的には人事部の見解を披瀝せず、メリット、デメリットを開陳しながら「いかがいたしましょうか」と役員会の意向を伺った。
ところがそこに落とし穴があった。このやり方に川岸が異を唱えたのだ。
「どうしましょうかじゃなくて、人事部の見解としてどうしたいのかを出さないかんやろ。それを審議するのが役員会よ」
元人事部長であり、そもそも何事にも厳格なだけに看過できなかったようだ。
丸山は“しまった。今回はやりかたを間違ったか”と一瞬悔恨の念が走った。しかし、そこは営業で鍛えた強靭なマインドの持ち主である。すぐに態勢を立て直した。 
「はい。申し訳ありません。初めてのことであり規定外のことでありますので人事部が予見することを控えさせていただきました」
冷静を装い、波風を立てぬようその場を繕おうと思ったが、
「なにを言うちょるんかね。そもそも規定外のことを審議する必要があるんかね。何のための規定かわからんじゃないか。だから人事部としてこうこうの理由でお伺いしますと上げてくるのが筋だろう。そもそもこんなことが審議に値するんかね。組織の規律は保てんよ」
と川岸は容赦なく畳み掛けてきた。
どうやら川岸は認めたくないようだ。その言葉は、明確に「ダメ」とは言わないが、それよりもさらに強烈な意思をもって投げられた。
言葉とは生き物だ。あまり意思が強すぎるとそれは悪意にさえなることもある。
「まぁまぁ」
相手の非をあげつらっても物事は解決しない。虐めになるだけだ。
樋口は手で押し止めた。
「経営なんてものは須く規定外のことばかりじゃ。それを経営理念や哲学でナビゲートしていくのが経営じゃ」
川岸は自分の言動が押し潰されたようで面白くなかった。背筋をピンと伸ばし顎を引いて書類を睨みつけた。
「営業の考えはどうなんだ」
まだ一言も発していない堀越に樋口が振った。
「そもそも規定とおりに処理するのであれば役員会に上程する必要もないわけですが……」
堀越は暗に川岸に対立する言い方をした。
今回の件は植村所長個人の問題で終わらず社員全員に会社の姿勢が問われます。そう思ってご審議願っております。認めるか認めないか。認めなかったら植村は会社を辞めるか、登山を諦めるしかありません。K2という山が尋常な山でないこと。そのパーティーに選ばれたこと。給与をカットされても構わないという、植村自身の相応の覚悟を持った真剣な決意であること。おそらく一生を掛けた夢でありましょう。その夢を無碍に摘んでしまうことは社員に会社の非情さを示すことになります。そんなこんなを考えますとここは認可してやりたいと思います。社員の夢を後押ししてやるのも親心かと思います」
堀越はゆっくりと、しかし、しっかりした口調で自説を述べた。
「ほかにまだ言いたいことがあるか」
樋口は周りを見回した。
「ほかの会社やパーティーの他のメンバーはどうしとるんかね。それくらいは調べておきなさいよ」
川岸は体面を保つように人事部の資料不足を嗜めた。
「おそらく例外事項で対応されているのだと思います」
「そんな曖昧なことで審議できるもんかね」
「はい。申し訳ありません。ただ他の会社さんのことまで立ち入って聞くわけにもまいりませんので、……」
丸山は背筋に冷たいものを感じながら言葉を濁した。
「まあ、よろしい。営業の組織統治の考えもあることだろうし、営業の意思を尊重しよう」
樋口は、川岸の言うことも道理だが会社としての心を大事にすることにした。
「こんなものは遊びといえば遊びだ。仕事じゃないからな。だが、わが社は企業として社会貢献に尽力しているところだ。そんな会社がこんなことも受け入れられなくて本気といえるのか。お前たちはわしが言っている社会貢献を近視眼的にしか見ていないから振れる。個々の案件の問題ではなく、姿勢というのは『気』じゃ。本気があるかどうかが問われるのじゃ。やる気、根気、本気がなくて何事も成就しない。見たり聞いたりの知識や見識を胆識にまで落とし込んでこそ本気じゃ」
樋口はそこで皆に飲み込ませる時間を置いた。
「企業の社会貢献もいろんな形があっていい。とはいえ無定見に、無鉄砲に何でもやればいいってものじゃない。企業がやれることを考えることだ。企業の本分は、利益を上げて配当と税金を納め雇用を創出することが第一義だが、金さえ儲ければいいってものじゃない。いろんな形で貢献できることはしたらいい。文化活動でもスポーツ振興でも、登山への便宜もあっていいじゃないか。これこそわが社しかできないんだろ」
樋口の裁断で、K2登山は特例事項として承認された。
丸山は薄氷を踏む思いで植村の案件を通した。
この案件が認められたことで、「堀越は部下の気持ちがわかる人だ」と社員の間で一段とポイントを稼ぐことになった。
丸山は、好きな堀越のために仕事が出来て少し誇らしかった。
人のために仕事をするとはこういうことだ。
丸山は男の仕事ぶりを無言で教えた。

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