更新 2013.02.25(作成 2013.02.25)
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第6章 正気堂々 73.啐啄同時
1996年。樋口は年頭の標語に「啐啄同時」を揮毫した。
中国食品のほとんどの社員が初めて出会った言葉でどういう意味か即座には理解できなかった。
年頭標語は、新年互礼会でのトップのあいさつの中で紹介されるのが通例だ。
樋口はそのあいさつの中で簡単な解説を加えながら自分の真意を伝えようとしているが、こういう話というものは通り一遍の説明を聞くだけでその真髄を理解するには至らない。その出典や背景を理解しなくては拳拳服膺とはならないものだ。
人材の育成と自立を標榜している今、後は自分たちでそれくらいの勉強はしなくてはならない。
銘々書物を紐解き、情報を交換しながら造詣を深めていった。
「啐啄同時」
「啐」:卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側からヒナがコツコツとつつくことをいう。
「啄」:ちょうどその時、親鳥が外からコツコツと殻を破る手助けすることをいう。
この作業が同時に行われることで無事ヒナ鳥が生まれてくるのである。
親鳥の啄が一瞬でもタイミングをあやまり、早くても、遅くても中のヒナ鳥の命はあぶない。「啐啄同時」でなくてはならないのだ。
両方が期を一にして初めて成し得る絶好の好機、その大事な一瞬を「啐啄同時」というのだそうだ。
孫ひきで申し訳ないが、古くは中国の『碧眼禄』にある禅僧と学僧の問答の一節として載っているそうだ。この逸話自体は思いあがった学僧を禅師が嗜めるという、真反対の逸話であることが面白い。
樋口は今の中国食品の現状を、そして自分の思いをこの言葉に託した。
そしてこの年を“人材開発元年”と位置づけた。
「今、若い有能な社員がまさに一人前として独り立ちしようとしている。先輩や上司はそれを助けなければいけない」
折しも研修センターも完成し、人材開発制度も完成しようとしている。今まさに「啐啄同時」のときである、と。
このことで管理職をはじめ多くの社員が部下を育成するという重要さを意識し始めた。それまでどちらかというと出る杭を打ち、考え方や感性の世代間格差を新人類と揶揄し、研修にも積極的に出そうとしたがらなかった。しかし、これを契機としてあからさまなそういう兆候は陰を潜めた。
やはり、トップとしての思いは発信し続けなければ伝わらない。
この年の人事異動で岡山の営業所長をしていた徳永浩が人事部に配属になった。長年営業所長を務め、運営に齟齬はなく安心感のあるベテランの所長だ。そこそこの成績も出し続けていた。
1年ほど前から筋肉が萎縮していくという難病に罹り仕事を出たり休んだりを繰り返していた。
一朝一夕に完治するような病気ではなく、第一線は無理だということで人事部の専門役として配属されることになった。それ以外に処遇のしようがないのだ。
手に力が入らないため物を書くことすらままならず、食事もフォークやスプーンのようなもので食べていた。箸を持つことはできるがそのほうが食べやすいのだろう。
パソコンはゆっくりだがなんとか打てた。そのため人の仕事の入力を手伝うようなことをして日々を繕っていた。
考え方や性格も落ち着いており、安定感のある人柄は平田も信頼を置く所長の一人だった。
なんの因果か、気の毒だが人の運命であろう。1600名も社員がいれば時にはこういう人が人事部には配属されてくる。2、3年前には躁鬱の社員もいた。人間の営みだ。
昇給交渉の資料をまとめているときだった。
「平田さん。チョット相談があるんですが、今日飲みにいきませんか」
珍しく荻野が社内電話で誘ってきた。
昨年の異動で、川岸が半ば力ずくで荻野を企画室へ移して1年が過ぎた。
荻野は自分は電算でしか生きていけないと思っている。それに電算を握っていればどこの誰とでも伍していけるし、サラリーマン世界を勝ち抜くための強力な戦術的武器になる。そのため電算に対する思い入れは人一倍強かった。
それを昨年度の人事で川岸が企画室に強引に引き抜いたのだ。もちろん本人は強烈に断わった。
川岸は、「企画室の業務システムが確立するまで協力してくれ。いずれ電算に返す」という条件付で口説き落としたのだ。平田は自分の時とよく似ていると思った。
川岸は、それまでの企画室の業務スタイルが漠然とした考えや資料に基づいて練られていることが気に入らなかった。これからはしっかりとしたデータに裏打ちされた論理的企画であるべきことを願った。それでこそ説得力のある企画業務が出来る。そうした体制を構築しなければ企画本部長として自分の考えが形にできない。それには荻野を企画室に呼ぶことが絶対的条件だ。電算のシステムとデータと人脈をフルに活用して、まずは一通りの業務スタイルを早急に作り上げてほしい。そこまでできれば後はそれを使うくらいの人材はいる。その時が電算に返すときだ。
平田は、人事制度作りや春闘資料作成でテンヤワンヤの今、荻野とマンツーマンで飲むのは億劫だった。ト金会が事実上休眠し、メンバーの気持ちにも微妙な亀裂が入ってしまっており、その一因が荻野にも関わっているからである。昔のように無邪気に飲む気にはなれなかった。
「ウーン。今忙しいんよなー」
平田は気乗りのしない言い方をした。
「ちょっとだけでいいんですがね。何とかなりませんか」
荻野も食い下がってきた。
「外でないといけないか。上の会議室じゃいかんかね」
そう言いながら平田は、パソコンの会議室の予約システムを開いていた。
外で飲むのと違って、会議室なら要件だけで終わらせることができる。いたずらに場つなぎの世間話に時間を費やすこともない。
「いいですよ。今からでもいいですか」
「うん、わかった。第3が空いているようだから待ってるよ」
平田は2時間の予約を確定すると階段を上がった。
踊り場の自販機で荻野のためにホットコーヒーを2杯買ったところへ荻野がエレベーターから姿を現した。
1杯を差し出すと「あっ、すいません」と荻野は礼を言いながら受け取った。
平田は先に歩きながら会議室のドアを押すと、中には少しタバコの臭いが残っていた。