更新 2013.02.05(作成 2013.02.05)
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第6章 正気堂々 71.申請書
十人十色というが人というものは実にさまざまだ。考え方や性格、生き方、行動様式、実に多種多様で奇奇怪怪なことが起きる。
中国食品においても1600名もいれば実にいろいろな出来事があり、しかも小説より奇なりである。
富永のわがままがすこし沈静化したかと思っている矢先、今度は植村のヒマラヤ登山の申請が上がってきた。
植村は2年前、豊岡とともに平田を大山の山小屋に招待してくれた所長だ。
少年のように目を輝かせながら夕日に輝く雪の大山を見上げ、
「k2に登りたい」と、夢のように語っていたのを平田は思い出した。
所属する日本山岳協会で、パーティーを組んで近々挑戦することが決まったらしい。
こういう大きな山に挑むには今日明日決まったからさあ行こうと行けるものではなく、何年も前から準備し綿密に計画を練って挑まなければ絶対に成功はないらしい。失敗すれば死の恐れがある峻厳なものだ。
このたびの計画も来年の秋に出発するらしいのだが、それに申し込みたいとの申請である。
もし、参加が決まればその準備や訓練から挑戦、帰国までおよそ2年以上かかるらしい。その間会社を休ませてほしいというのが申請内容である。
平田も山は好きだ。ただちょっとした小さな山で、ハイキング程度のものだ。いわば自然が好きで、山でも川でも海でも自然の中で遊ぶのが好きといったほうがいい。とはいえ、スキーのゲレンデさえ寒いのに極寒の山に苦しい思いをして命を懸けるような危険を冒してまで登ろうとは思わない。しかし、植村にしてみれば命を懸けても行きたいと思うなにかとてつもない魅力を感じるのであろう。
今春専務に昇格した営業本部長の堀越が、植村の申請書の入った封筒を持って丸山のところへやってきた。
本来なら「チョット来てくれ」の電話一本で呼びつければいいところだが、今回は自分からの頼みごとである。堀越はわざわざ8階まで足を運んだ。この辺が堀越の人柄である。それに堀越は育ちの良い丸山が好きだ。人品骨柄が気に入っている。ガツガツと功を焦ったり、ギラギラと野心をたぎらせたりしないところが気に入っている。
わざわざ8階まで足を運んでくる堀越の誠実さが滲み出る生き方は、丸山の生き方とも通じるものがあり、丸山も堀越が好きだ。言葉の端々や堀越への対応から平田はそう思っている。
封筒の中には動機や意義、心意気、休暇期間などが数枚の便箋に綿綿と綴られた申請書とともに、大まかな登山計画や日程を書いたものが添えられていた。
内容を読み終わった丸山は、
「それで本部長はどうしたいとお考えですか」
と堀越の気持ちを慮るように尋ねた。
「うん。こんな機会は一生の間にそう何度もあるものじゃない。植村にしてみれば生涯の夢だろうよ。そう考えれば行かしてやりたい気もするが、そもそもそんな休暇制度があるのかな。それを確認しにきたんだよ。それに業績は芳しくないだろう。そんな時所長が長期間業務放棄するようなことを許していいものかどうか、悩ましいところだ」
「なるほどそうですね。私もそんな制度は聞いたことがありません。後で詳しく調べましてご報告に上がりますがそれでよろしいですか」
「うん。そうしてくれ」
と言って腰を浮かしかけたが思い直したように力を抜き、
「規定に照らすだけなら事は簡単だが、それだけで済ましていいものかどうか……。その辺もいい知恵があったら考えておいてくれ」
「はい、わかりました……。すぐ調べさせますので」
細かい規定の隅々まで承知しているわけでもない丸山は、へたな回答をして堀越に迷惑を掛けるわけにいかないし、人事部長としての自分の体面を失うわけにもいかない。それにこの問題は規定上の取扱いだけでなく営業部、人事部、強いては会社の社員に対するマインドが試される事案である。
ところが規定にない事案だけに厄介だ。安易に認めれば、規律が乱れるとか、規定はなんのためにあるんだ、例外ばかり作るのなら規定はいらないじゃないかと誹謗される。かといって厳格に運用すれば冷たいのー、と言われる。どっちにしてもなんらかのリアクションを伴う。
為政者にしてみればこういう案件が一番鬱陶しい。自分の人間性までもが試されるからである。失敗を恐れる為政者は心を閉ざして規定どおりに運用したくなる。厳しい人事、冷たい人事の分かれ道である。
「本人は、賃金がカットされても構わんと言っているんだよ」
山男は純粋だ。植村の大山を見上げる瞳の輝きがそれを物語っていた。行きたいと思えば一心だ。胸をときめかせる。2、3年間の賃金の不支給などさして気にもならないのであろう。更には旅費や参加費など負担は計り知れないものがある。それらを押してなお行きたいのだ。
家庭を預かる奥さんも大したものだ。旦那さんの夢のためにそんな負担にじっと耐え、もしかしたら命さえ危ないというのに黙って送り出すのである。肝っ玉母さんでなければ山男の奥さんはとても務まらない。
「なるほど。わかりました」
「それじゃ頼む」
今度はあっさりと引き下がり、丸山に預けて帰っていった。しかし、その足取りは心を引かれるように重かった。
丸山は、堀越は行かせてやりたいのだとその心を推し測った。それでなければわざわざここまで来ないだろう。
中国食品の休暇制度には、年次有給休暇のほかに産前産後休暇や育児・介護休暇、慶弔休暇などがある。
今回使える制度としては年次有給休暇が該当するが繰り越しを入れても最高40日が限度だ。
後は休職制度しかない。しかし、休職制度は業務外の傷病によって就業が困難な場合や、そのほかの理由で会社がやむを得ないと認めた場合に適用されるもので最高1年8カ月だ。その後は期間満了に伴う退職しかない。
今回の申請はそれらのどれにも該当しない。
「柴田課長、長峰、ヒーさん」
丸山は、3人を呼んで応接兼打ち合わせ用のテーブルコーナーに手招きした。長峰は休暇や給与支給の実務担当者だ。最も規程に精通していなければならない運用担当者だ。
こういう身内だけの打ち合わせの時、必ず自動販売機のカップコーヒーか缶コーヒーを飲むのが中国食品の社員の習癖である。
事前にわかっている会議や大人数のときなどは銘々勝手に持参するが、今日はその準備がない。
丸山は自分の小銭入れを近くの女性職員に渡し、指で4つを作った。
「何がいいですか」女性職員は尋ねた。
「ホット」
丸山が答えると、女性職員は炊事場から丸いお盆を持って小走りに出ていった。
「まず、規定上適用する制度があるかどうか調べてみてくれ」
実務担当者にしてみればこんなこと改めて調べるまでもなく、当然精知している。全員が同時に、
「それは無理です。そんな規定はありません」と否定した。
「敢えて適用するとするならば、就業規定○○条の長期休職制度でしょうか」と言って長嶺が就業規定の該当ページを開いてみせた。
「この条項はどういうことや」
「サラリーマンにとって、身体は資本です。有休だけしか休みがなかったら長期の傷病は即退職につながり死活問題になります。それを救うのがこの条項です。休みを認めるだけでなく賃金についても、漸減してはいきますが何割かは傷病手当として支給されます。こちらの<その他会社が認めた場合>というのは、国や地方自体の公務に就いたり公共の団体に役員や職員として勤務しなければならないときですが、かって適用された事例はありません」
「ほかになんか適用する制度はないんか。賃金はカットされても構わんと言っているらしい」
「休職中はもともと無給が原則ですからそもそも賃金カットという概念は当てはまりません。不支給が当たり前なんです。ですからそのことを強調されても認可を後押しする材料になりません。植村さんの覚悟だけのものにすぎません」
丸山は自分の気持ちが押しつぶされたようで一瞬ムッとした顔をした。
丸山は堀越の気持ちを汲んでどうにか行かせてやりたかった。
場に嫌な空気が流れた。
「お前はどう思う?」
丸山は平田に聞いてきた。
極まったその場の空気をどうにか打開したい意図が感じられた。