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李下の冠、瓜田の履

更新 2011.04.05(作成 2011.04.05)

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第6章 正気堂々 5. 李下の冠、瓜田の履

翌週の19日から、ついに賞与交渉が始まった。夏季の賞与交渉は固定部分をいくらにするかだけだから進展は早く、5月中の決着をめどに話は進んだ。
例によって組合は、夏、冬の固定を2.4カ月、2.4カ月で春からの継続要求である。
一方、会社は2.3カ月、2.3カ月の主張で、争点は単純だが話は平行線のままだ。
そんな中、交渉も終盤に差し掛かったある日のこと、組合は現状打開という名目で三役団交を申し入れてきた。
「本日の経済交渉は平行線のままですが、これはこれとして会社の汚職体質について組合として看過するわけにいかない問題があります」
坂本は、経済問題に託けて単刀直入に切り出した。
「また、大仰に取り上げて。そんな問題がありますか」
川岸は、あくまでも鷹揚に構えた。
それに対し坂本は、川岸の反論を拒むように
「あるね」と力強く断じた。
「これはある筋からの確かな情報ですが、研修センターの用地買収に絡んで、またぞろ利権を貪ろうとの企みがあるのを……、会社は知っとるんですか」坂本はわざわざ「会社」の前で言葉を切り、最後のフレーズに力を込めて声を荒げた。
ここでいう会社とは、当該者以外の会社の役員のことで、特に、今や会社の理念や行動規範の精神的支柱となっている樋口―川岸ラインの経営の主流を指している。その言葉の裏には「あんたら2人が、もっとしっかりしてくれなくては困るんだ」という坂本の願いが込められていた。
「なんですって。そんな問題は存在しません」
「脇が甘いのと違いますか。不動産業者や建設業者の裏金問題は、ないというほうが珍しいほどの社会的宿弊です。わが社にないとどうして言えますか。いままで散々業者と馴れ合ってきた巨魁が、デーンとおわしますじゃないですか。それも営業とグルの話です。両現業のトップがこれじゃ社員はヤル気が起きませんよ」
委員長の突然の爆弾発言に他の三役は、豆鉄砲を食らった鳩のようにキョトンとしている。
「まあ、そういうことも過去にはあったようですが今はないでしょう」
「それがあるから憤慨しとるんです。我々が1円の賞与交渉をやっとる時に、湯水のように会社の金を使い迂回させて自分の懐に流し込もうという。やっと会社が立ち直った今にそんなことを考えることが許せんのです。それをのうのうとのさばらしておくから、経済交渉もあっそうですかというわけにいかんのです。そんな甘い経営を信じて賞与交渉はできません」
坂本は“バン”とテーブルを叩き、いつまでもケジメのつかない会社の利権体質を指弾した。
「後は会社で決着を付けてください。今日の話は外部にはオフレコにしておきます。組合も三役だけです。社長が対応を練られる前に誤魔化されたらいけませんので極秘で進めてください」
坂本は、席を立ちながら平田に「どうだ」と言わんばかりの視線を投げて部屋を出て行った。
他の三役も後を追って出て行こうとしたがそれを平田は呼び止めて、速報には乗せないことを確認した。
「組合は他の執行委員がいますから『三役団交決裂』とだけにして内容は書きません」書記長は問題の重大さを忖度して対応を決めてくれた。

部屋に戻った川岸は、自分の椅子の背もたれに身体を預け、未だにそんなことが本当に行われているのか不思議な気がした。
“人間50も60もなると性格や考え方は変わらんのやろうな”
“委員長があそこまで言うからには、何か確信があってのことだろう”
放置しておくわけにはいかない川岸は、フーッと大きな息をして社長室へ向かった。
秘書の取次ぎで社長室に入った川岸は、樋口の前に姿勢良く立ち団交の一部始終を報告した。
「社長、ちょっと言いにくいことではあるのですが、取り急ぎ耳に入れておかなければならないお話がございます」
「なんだ」樋口は見ていた書類から目を離し、めがね越しにじろっと見上げて返事をした。
「実はかくかくしかじかで、浮田常務、河村常務のお二人に不正取引の疑惑が浮上しております」
「なんじゃ、そりゃ」
「はい。なんともお粗末な寂しい話でありまして」
つい二月ほど前に新井を切ったばかりなのに、今度は不正取引だというのか。樋口はタバコに手を伸ばしながら深いため息を漏らした。
「まあ、座れ」そう言って樋口は、タバコを指に挟んだ手でソファーを指し、イスを立った。デスクをぐるっと回ったところでインターフォンを押し、秘書にコーヒーを頼んだ。
トップとはいつも孤独だ。書類のチェックにも飽きてちょうど誰かと話したいと思っていたところだった。
川岸は、樋口がコーヒーを入れてくれたことを内心嬉しく思いながら、樋口が座るのを待ってテーブルの向かいに腰を下ろした。
「組合の申しようでは、単なる不正の始末の問題だけじゃなく、会社規範と信用の取り戻し方が大事で、それによって会社の将来を見ている、と申しております。それによっては交渉姿勢も変わるかもしれません」
「そりゃ、そうだろう。信頼をなくしては会社も経営が出来ないし、組合も経営に協力できんだろう」
「どうしましょうか」
「どうもこうもない。事ここに至ってまーだそんな不心得なことをやっちょるとは、2人とも役員の資格はないな」
樋口は深くタバコを吹かして、ソファーに身体を預けた。
「4億か5億の取引をピンはねしたところで、せいぜい1千万円か2千万円にしかならん。どーせ大した額じゃないのに、これまで築いた信用も経歴も全てに泥を塗りよる。バカモノが。会社とは公器だということがわからんのか。絶対に私物化してはならんのだ」樋口は憤慨してみせながら、半分は川岸にも言って聞かせているように見えた。
「ただ、確証がございません。組合は何か握っているようなんですが、それが何かわかりません」
「ニュースソースはそう簡単には聞けんよ。いいんだよ。李下の冠、瓜田の履でな、火種はあるんじゃよ。そういうことを見過ごしたらいかん。それを掴むのは俺の仕事だ。あの2人ならやりよるやろ」
樋口は、何かを予期していたのか、待っていたような口ぶりで、真偽の詮索より殊更事件性を大げさに取り上げた。
現経営陣の中ではこの2人は旧経営からの置き土産のようなもので、自分の経営には無用の長物化していた。もし、この2人がいなくなればもはや自分より先輩はいなくなる。いつも肩に重くのしかかっていたシコリが取れるというものだ。いずれ早い内にお引取り願いたいと思っていたが、こんな口実を作ってくれるとはもっけの幸いである。マル水にも十分言い訳が出来るというものだ。
終始沈痛な表情をしてみせてはいるが、樋口の胸中は裏腹だった。
「それで私どもはいかがいたしましょうか」
「うん。そうだな。このことはしばらく黙って様子を見ておれ。組合にもしばらく伏せて置くように厳重に言っとくんだな。後のことは俺のほうで考える。また、何か特に動きがあれば報告してくれ」
このときすでに樋口はこれからの展開を描いていた。

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