更新 2012.06.15(作成 2012.06.15)
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第6章 正気堂々 48. ホワイトナイト
「まあ、そう感情的にならずに冷静に考えてください。トップをはじめ経営陣も事務員もこれまでどおりにやってもらうつもりですし、これでも最善の配慮はしているつもりですがね」
事務員とは、経理を一手に握り中野の野心を支え続けている中野の奥さんの専務のことを指している。
「いいえ、断わらせてください。これでは私の生涯をかけた夢が踏みにじられる思いがします」
「そんな大袈裟に考えなくてもいいじゃないですか。穏便に話を進めているつもりですよ」
樋口はさも残念そうに肩を落としてみせた。それがかえって中野の叛骨心をあおり、さらに頑なに口を噤ませてしまった。
「そうですか。わかってもらえませんか。それは残念です。しかし、それでいいのですか。それで御社の経営が立ち行きますかな。もし話が物別れということになったら、我々は新しい会社を即座に立ち上げます。仕事も全部引き上げます。もしかしたら人材も引き抜くかもしれませんよ。恐らく新会社を立ち上げることになると給与もわが社なみの水準になるし退職金や健康保険など福利厚生も格段に良くなるでしょう。みんな喜んで来てくれるのではないですかね。それでも意地を通されますか」
「……」
中野は反論する気にならなかった。喧嘩になれば勝ち目は薄いだろう。勝ったとしても無傷ではいられまい。そもそもこういう場合の勝つということの意味もよくわからない。それでも男の意地が頑迷に樋口の提案を拒ませた。口元をキッと引き締め樋口を睨み続けている。
会社を立ち上げて13年。時代の潮流と中国食品の営業戦略に乗っかり、これまで順調に伸びてきた。今や従業員は総勢74名にもなっている。人知れず血の滲むような苦労もしてきた。いつか大きな波風が来ることも予想はあったが、まさか事業のパートナーだと思っていた親会社からこんな形で来るとは夢想だにしていなかった。時代の潮流に乗り事業はこれからも更に順調に推移するハズだった。まさに好事魔多しである。
しかし、中野はまだ諦めてはいなかった。このとき中野の腹の中に一つの秘策が思い浮かんだ。重要事項の決議権はまだこちらにある。いざとなればどこかの資本家でも銀行でも事業家でも誰でもいい、に第三者割り当て増資を引き受けてもらい、資本を増やすと同時に議決権を確保するという防衛手段がある。
いい策が浮かんだときというのは対極にそれを邪魔する心配の種が頭を過るもので、中野はこれまでの経営方針がマイナス要素となって足を引っ張らないかと気になった。自分の信条として、これまでの経営方針はできるだけ会社に資産を残さず会社収益が中野個人の私財へと流れるようにしてきたから、会社に担保となる目ぼしい財産がなかった。土地にしても中国食品からただ同然に安く借りていたし、建屋もプレハブのお粗末なものだった。あるのは塗装用のコンプレッサーや乾燥機、運搬用の小型トラック、数台の車くらいである。そんなことが少し後悔された。
「いかがですか。承知していただけませんかな。どうしても否だということでしたら、私どもとしましても強行手段に出ざるを得なくなります」
「どういうことですか」
中野は突っけんどうに言い返した。
「そうですね。まずは明日から早速御社への発注は一切止めます。それに出資金の1億円を引き上げさせてもらいましょう。同時に今御社へ貸している広島工場の敷地を返していただきます。それから御社の社員の引き抜きを始めましょう」
「そんな無体な……」
中野は絶句した。
「まあ、貴方にすればホワイトナイトを探すという手段がないとは言えませんが、収益の源を止められては意味をなさないでしょう」
樋口は中野の思惑を見透かすように釘を差した。
「増資額の2億は決まりですか」
中野はやっとの思いで聞き返した。
「そうですね。最低でもそれくらいは要るでしょう。必用ならいつでも増額します」
どうあがいてももはや勝ち目はないのか。中野は、悲憤慷慨の胸の内を掻き毟りたい思いだった。
「しかし、ひどいことをされますね。私は中国食品は強い味方だと信じていました。まさに裏切られた思いでいっぱいです」
中野は憤懣やるかたない目をして樋口を睨みつけた。
「中野さん。それはないでしょう。これでも私は随分辛抱してきたつもりですよ」
樋口はなだめるように言ったが、中野は突っかかるように言い返した。
「何をですか。私が何をしたと言うのですか。私なりに中国食品の事業に協力してきたつもりです」
それなのになんでこんな因果になるのかと、情けなかった。
「わが社が御社に支払う工賃は、もとはと言えばわが社の社員が汗水流して稼いできた貴重な財貨です。御社とは50%近い資本関係にあります。もはや貴方個人の会社ではありません。御社とわが社の社員全員の生活の基盤です。地元社会にも何がしかの奉仕して事業を続けさせてもらっておる立派な株式会社です。株式会社とは、世間様の資本を預かって運営させてもらっている社会の公器です。それであるにも関わらず、御社の経営はどうですか。私利私欲に流れ公私混同が激しすぎませんか。いろんな抜け道で、会社の財産があなた個人の懐に流れ込んでいることは誰の目にも明らかです。これだけの事業を続けてきたらもう少しいい会社になっておるべきです。いつまでも個人商店でおられたらわが社の社員に申し訳が立ちません。これまで随分我慢してきましたが、今後更に事業を拡大しなければならないときにこのままじゃわが社自身がダメ会社になります。そこで経営権をわが社に預けていただこうと思ったわけです。これは私たちが悪いのではない。貴方がいつまでもそこに気付かずに杜撰を続けておられるからこういうことになるのです。乗っ取りといえば乗っ取りかもしれないが、これは資本主義社会の掟です。乱脈経営の付けが来たのです」
樋口は、会社を私する中野の経営姿勢をじっと我慢しながら今日のタイミングを計っていた。
4年前。係長・主任制度を審議する役員会で樋口は、「将来は組織をまとめて外に出すんだな。外に出すことで組織自体が命を息吹くようになる。下ごしらえも仕掛けもいるが、それは俺がする」と言っていたが、その頃からズーッと、期が熟すのを待っていたのだ。
樋口にそう指摘されれば確かに脛が痛む。しかし、そもそもそれが自分の起業動因だからしょうがない。社会の公器になんぞなって何が面白い。例え小さかろうと大きかろうとトップに立ってこそ面白い。
私企業でいようとするには、少し会社が大きくなりすぎたな。擬制株式会社の終焉か。中野に僅かな後悔が起きた。
「少し考えさせてください」
例え適わないとしてもこのまますんなりと了承する気にはなれない。何とか態勢を立て直す時間を稼ぎたかった。
「いいでしょう。それでは10日間の猶予を与えましょう。ゆっくり考えてください。ただ、あくまでも私たちは友好的に解決したいと考えております。中野さんには社長を続けてもらいたいと考えておりますし、会社体制は今のまま存続したいと考えております。そこら辺をゆっくりと勘案して返事をください」