更新 2012.06.05(作成 2012.06.05)
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第6章 正気堂々 47. M&A
中野はまだ、樋口が何を考えているのか奥が読めない。技術屋をそっくり受け入れることはさほど難しいことではないが、それだけで済むとは思えない。その真意は何なのか。どんな条件がついてくるのか。必死で樋口の心底を読もうと全神経を尖らせ、頭の中はジンジンとしびれている。
人を送り込む状況はさまざまだ。単なる人員の受け皿や経営の監視役、あるいは経営権そのものを握ろうという場合など、いろいろな狙いと重要な意味を持っている。
中野は心臓が飛び出しそうな切迫感を覚えながら樋口の説明を待った。
「いきなりこう言われても何がなにやらわからんでしょう」
中野は、まじろぎもせず樋口の顔を見つめたまま小さくうなずいた。
樋口は、その不安に満ちた顔を冷徹に受け止めながら自分の事業信念を再確認していた。ここで情けを出すわけにはいかない。いずれそれはしがらみとなって足をすくう。時には鬼となって非情の腕を振らなければならないときもある。
「それでは詳しくお話しします」
樋口はそう言ってタバコをもみ消し、コーヒーを一口すすった。
「この冷機関係の仕事は確実に市場が拡大する。一つの産業として立派に成長するでしょう。そこで先ほども言ったように、わが社の事業戦略として、この冷機サービス分野をもっと拡大充実したい。しかし、御社だけではもはや限界のようにお見受けします。技術革新に対する人材の育成、事業所整備、経営スピード、全てにおいて限界のようだ。そこで、わが社の本体の中にある技術集団を活用したい」
まず、前置きをして十分間をとり、新しいタバコを指に挟んだ。取締役の中にはすぐに火を出す茶坊主が多いが北尾はそんなことはしない。樋口は自分で百円ライターを右手で持ったまま先を続けた。
「彼らを独立させたいのです。一つの産業として成功するためには独立するしかありません。本体の中に置いていてはメイン事業を支える縁の下の力持ちで、ただの異質な集団で終わってしまう。いずれ上にも横にも行けず進退窮まって本業に阿るようになり、本業に巣食うようになる。彼らが外部からの稼ぎがあり、本業と競うくらいなら本体の中の一事業部門として自立できるのですが、本業に寄りかかっていては彼らのためにならんのです。彼らにも誇りが要る。そこのところはご理解いただけますか」
樋口は中野にこんな考えが入っていくのか疑わしかったがどちらでも構わず、一応自分の考えとしていわば説明責任のようなものだと思って話を続けた。
「はい。それはよくわかります。しかし、それではなぜわが社へですか」
と言いながらも、中野は別会社を立ち上げられるよりはいいのかもしれない、と考えていた。
「そうです。私が来たときは35名くらいでしたが今や45名にもなっております。さらに強化していかなければなりません。もはや本体の中に置いておくには無理がある。それに世の中効率が叫ばれている今日、この事業を軌道に乗せることはいろいろな意味で急がれる。御社との二重構造は無駄だ。そこで、御社の技術とわが社の技術を一つにすれば今すぐにでも外に打って出ることができると考えたわけです」
樋口の確信に満ちたその口調にはもう決めたことだという断定的響きがこもっていた。
「とはいえ、いきなり45名も受け入れ拡充していくにはそれなりの準備がいるでしょう。入る場所も工場も大きくする必用がある。そこで持参金代わりと言ってはなんだが、資本関係をもっと充実させたい」
樋口はまるで少年のように自分の思いを熱く語った。
人が命を燃やすときというのは、自分の存在意義に対する執念か、それとも何かを成し遂げようとする情熱がなければできないのだが、問題はその情熱の方向性と強さと継続性である。その情熱が必要な勉強や研究に勤しませ、阻害要因を排除するエネルギーを生み出す。いずれにせよ大成する人の必須要件である。
「それは増資ということですか」
中野は慌てて確認した。
「そうです」
「それはどれくらいですか」
金額次第では自分の資金も入れることで互角の関係を維持できるかもしれない。今はまだ議決権の50%以上を自分が握っており、重要事項の決議権はこちらにある。いざとなれば否決することも可能だ。中野は息がとぎれそうな焦燥感の中でわずかな希望の糸口を求めた。
「まずは、本社建屋と工場をもっと広いところに建て替えて、要所要所に営業拠点を構えたい。それに冷機に関連する付帯事業も始めたい。それには定款の変更なども必要になります。そんなこんなを考えると最低でも数億の資金は必要でしょ。半分を銀行借入で賄うとして、自己資本を2億くらい増やしましょう。我社(うち)が債務保証すれば銀行もそれくらいは出すでしょう」
“2億か”
「ウーン」中野は唸った。
2億も入れられると完全に2/3の議決権をとられてしまう。2、3千万円ならなんとか資金の捻出もできるが、桁が違えばどうにもならない。
「しかし、新しい本社と言いましてもそう簡単にはいい場所も見つからないでしょう」
なんとか違う理由はないものかと、ピントのずれた反論をした。
「いやいや。バブルの弾けた今、その気になればそんなもんいくらでも見つかりますよ」
このとき樋口はすでに、沼田に開発されている工業団地に目星を付けていた。この工業団地は、アジア大会のための競技場や選手村の建設と同時に、周りの山を削り分譲住宅用地と併設して工業団地が一挙に開発されたものだ。五日市インターに近く、将来は中国道に通じる沼田インターも出来る予定であり、物流の拠点になることはわかっている。サービス会社の本拠地を構える場所としては申し分ない。しかし、時節柄販売は芳しくなかった。
「まあ、そんなことはいいとしてどうですか。この提案を受け入れてもらえませんか」
「しかし、人も金もそこまで受け入れては完全に子会社化してしまうではありませんか」
中野には起業ということに対する一つの信条がある。
自己の資本注入はできるだけ少なくしてリスクを抑え、どこかの大企業の下請けでも小間使いでもなんでもいい、うまく食い込んで工賃を稼がせてもらい、経理を一手に握り税務も青色申告に毛が生えた程度で財務を自由にやり繰りし、会社を利用して私的財産が増えさえすればそれが一番オイシイ会社運営だ。それだけではない。交際費や会議費など経費の私的流用や水増しなど、オーナーならばこその魅力が満ち溢れている。個人企業、一人社長の会社とはこういうことだ。会社は自分のものだ。人も金も完全に掌握されてしまったら自分はただのお飾りではないか。
こうした個人企業は、公器という企業のあり方とは一線を画して世間にその地歩を確かに築いている。現代の起業の目的はむしろほとんどがこちらであろう。ただ、会社が大きくなるにつれてそれでは許されなくなるのだが。
「まあ、子会社化といえばそうかもしれませんが、トップはこれまでどおり、中野さんにお願いしようと思っております」
中野は樋口の言い方を欺瞞に満ちた買収だと、体中に憤怒が沸き上がるのを覚えた。なんといっても自分の夢は完全に消えてしまう。
「これじゃまるで、体のいい乗っ取りじゃないですか」
じっと堪えてきた最後の言葉がついに口を突いた。
「人聞きの悪いことを言わないでください」
樋口もつい気色ばんだ。
「新株の引き受けです。M&Aと言ってほしいですな。いわば御社の高い技術力を評価し、出資金も増やし貴重なわが社の社員を差し出し、金も人も預けようと言っているのです」
「私はまだ過半数の議決権を握っています。この話はお断りさせてもらいます」
中野の言葉には怒気を含んでいた。