更新 2016.06.03(作成 2012.05.15)
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第6章 正気堂々 46. 乗っ取りか
1994年5月のことだ。
樋口は関連会社の日本冷機テクニック(株)の社長室にいた。連れているのは経理部長の北尾だけである。北尾は、バブル崩壊で負った債務返済のため退職した新井の後任にマル水から送られてきていたもので、当初は2年くらいで戻るだろうと言われていたが、本体の都合か樋口の都合か、すでにその期間は過ぎていた。
樋口は次の経理部長は野木と思いはじめていたが、北尾を返したらまた次の誰かが送られてくる。それが2度繰り返されたら経理部長のポストはマル水の指定席に既成化してしまう。やっとここまで自分の体制作りができてきたのだ。あと経理さえ柱ができればほぼ完成する。野木が育つまでもう少し北尾には居てほしかった。
ただ、マル水本体も市場の成熟化に加え、新商品の開発失敗や既存製品が顧客に飽きられたことなどから業績が振るわず、年々下降の一途を辿っている。多角やM&Aなどいろいろ試みているところであり、優秀な人材はいくらでも欲しかった。北尾もその一人だった。
樋口が北尾を伴ったのは、自分の経営は確かに事業を拡大し、経営基盤を確立しつつあることがマル水に届き、横槍を入れにくくするとの計算が十分働いた上でのことだ。
樋口は、これほどのカリスマでありながらそうした配慮を怠りなく発信し続けている。それは新陳代謝した本体の新しい役員の記憶から遠く離れた僻地の存在感が日々に疎くなり、いつスピンオフされるかもしれないという心配があるからだ。
日本冷機テクニックは社長の中野政信(58)が、これからの世の中は自動販売機や冷蔵冷凍食品販売機の需要が増大すると読み、野心旺盛な壮年期に立ち上げた会社で、自動販売機やリーチンクーラー、冷蔵陳列台などの食品販売機の修理や塗装、運搬設置などを手がけていた。名前が言いづらいことから内部的には冷機テックと呼び合っていた。中国食品が自動販売機による販売を積極的に推進しようとする戦略に食い込み、中国食品からの資本を受け入れると同時に中国食品の広島工場の敷地の一部を借り受け、本社事務所と修理工場の建設と運搬機器などへの設備投資を行った。常勤役員を含めた社員数74名、年間売り上げ7億5千万円の規模にまでなっていた。中国食品の自動販売機やクーラーを運んだり設置したり、修理したりの典型的労働集約型技術集団企業である。
中国食品は1億円を出資し持ち株比率も50%以上にしたいと考えていたが、自らも出資しあくまでも50%以上は維持したいとする中野の拘りで49%に抑えられていた。中野は銀行や地元資産家からの借入れでなんとか1億500万円の資金を集め、出資比率50%以上を確保した。
売り上げの95%以上が中国食品相手であり、他社の仕事は中国食品が取り引きしているスーパーや小売店の自前のクーラーや冷凍設備のメンテナンスや修理に限られ、それもディーラーからの要請があればの話であった。
『わが社には専門の技術集団がいます』
というのが中国食品の市場戦略だったから、他社の仕事をこなすことは契約上認められなかった。
技術交流と称して人員も出向の形で数名が送り込まれていた。
中年の女性事務職員がコーヒーを運んでくると、樋口は、
「これから大事な話があるので、電話も客も一切繋がないように」と厳しい口調で言い渡した。
そんな樋口のただならぬ気配に、中野は何事かと目を見張った。恐る恐る樋口の前に腰を下ろし、何が切り出されるかとじっと樋口の出方をうかがった。
「わが社もかなり自動販売機には力を入れておって中野さんにはお世話になっていると思いますが、近ごろ業績はどうですか」
「はい。お陰さまでなんとか昨年よりは忙しくさせてもらっております」
「うん。この分野はこれからますます市場が大きくなると思いますよ。それに販売機器そのものもICだの電子だのと技術革新が進んで高級機種が出回ってくると思います」
「はいそのとおりでして、わが社も技術力の底上げに頭を悩ませております」
食品販売機の技術分野は、板金や塗装の外装分野と、内部の機械部分と、運搬し設置する分野の3つに分かれる。もっと細かく言うならば、機械部分は食品を冷やす冷蔵冷凍技術とお金を識別しお釣りを計算し的確に払い戻すコインメックに分かれる。新札、新硬貨が出るたびに識別機能は複雑になり、機器全体をコントロールする電子基盤も高度なものになっていた。
更に大きな問題となっているのが、10月に開催されるアジア大会を前に広島市が打ち出した路上にはみ出した自動販売機の規制の強化である。撤去したり場所移動や薄型に置換したり、ディーラーからの要請は引きも切らずで対応にてんてこ舞いの状態が続いていた。
日本冷機テクニックには貝塚純二という43才の若手取締役がいた。肩書きは技術部長で彼の知識や技術力は人一倍抜きん出て、会社が世の中の技術革新にかろうじて付いてこれたのも彼の力によるところが大だった。またその人柄も物腰柔らかく、芯のブレないところが社内外で信頼を集め、その信用力は営業にも発揮された。まさに冷機テックの屋台骨を一人で支えている状況だった。そうした事情が若いながら彼を取締役に任じていた。そうでもしなければライバルに引き抜かれる恐れがあるからだ。
しかし、彼一人の力には限界もあり、これ以上の業容拡大は難しい状況だ。中国管内の自社製品に関する自動販売機はディーラー保有、自社保有合わせおよそ8万台に及んでおり、そのメンテナンスや新札発行、今回のようなはみ出し対応などいざ何か起きたときの対処能力はもはや限界に近い。
「これからの市場は手売り市場と機械による販売と大きく二分される。それが世の中の趨勢です。わが社も自動販売機にはもっと積極的に投資していこうと思う。自動販売機そのものもコンピューター制御の省エネや音声サービスなど複雑な機能が出てくるだろう」
「はい。そうかもしれません」
中野はまだ樋口の真意を見抜けぬまま生返事を返した。
「そこで、そうした舞台裏を支える技能集団を再編しないと積極投資に打って出られないのです」
樋口は、言い含めるように正面に座っている中野をジロリと睨めつけた。
もっと人数を増やせというのか。それとも工場の設備を拡大せよというのか。樋口に睨まれた中野は背筋に冷たいものを感じながら次の言葉を待った。
「ところで、今の御社体制では財力人力ともに限界のようで、これ以上の業容拡大は無理のようにお見受けします。このままの状態では一旦なにか起きたときはわが社がダメージを受けます。例えば値上げがそうだ。まだ増えるであろう8万台以上の自動販売機の価格設定を一斉に切り替えなければならない。まず無理だな」
「近々値上げでもあるのですか」
「いや、例えばの話だ……。それで、御社だけに頼るのではなくうち独自の技術会社を立ち上げようかと思いましてな」
樋口はここで一息いれた。中野の反応を目の隅で抜かりなく捉えながら運ばれてきたコーヒーを一口すすり、それから愛喫のショートホープを口にくわえ百円ライターを擦った。
「ご存知のようにわが社には独自の技術集団がおります。これらを独立させようかと思っております」
“なるほど、そうか”
やっと樋口の意図が見えてきた。しかし、それは日本冷機テクニックにとって強力なライバル会社となるのは必至である。売り上げのほとんどを持っていかれる可能性がある。49%とはいえ資本関係にありいきなり引き上げるとは言わないだろうが、例え捨て銭になったとしても1億円など今の中国食品にとって痛痒すら感じない金額だろう。かといって今更陣容拡大は人的資金的に無理である。もしかしたら会社をたたむような事態が来るかもしれない。体中の筋肉がビリビリと痺れるような何とも得体の知れぬ不安が中野の体を支配した。
「ただ独立させるといっても、これから会社を立ち上げたり事務所や工場を造っていたのでは回りくどい……。そこでだ」
樋口は最後の言葉を大きく言って話を切り、さっき火を点けたばかりのタバコをクリスタルガラスに忙しげにもみ消し、また新しいショートホープに火を点けた。
「いっそ御社でうちの技術屋たちをそっくり受け入れてくださらんか」
“そういうことか”
思わぬ展開に中野はホッと息をついたのも束の間、
“しかし、それは体のいい乗っ取りではないか”と新たな不安が中野の身体を突き上げた。