更新 2016.06.03(作成 2012.06.25)
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第6章 正気堂々 49. 読み違い
中野の心は千々に乱れた。
悔しい思いはあるがこのまま資本を受け入れ、構えが大きく立派になった会社の社長として体裁よく納まったほうが得か。それとも飛び出して別会社を作るか。市場はあるしそれなりの人脈もある。
あるいはこのまま兵糧攻めに遭おうとも餓死を覚悟に意地を通して会社を守り続け、外部売り上げのボリュームが増えるまで食いつなぐか。
しかし、いずれにしても金が要る。会社を作るにしても金がいるし、食い繋ぐにしても金だ。資本の引き上げも要求されるだろう。銀行や資本家から借り入れるにしても財務内容が問題だ。会社に資本を残してこなかったことが悔やまれた。
中野はそれじゃ残るかと自分に問い直した。
“自分は、男の野望とロマンを追求するために会社を起こし、自由に取り仕切ってきた。一流上場企業のように国家興隆に貢献せんと興業したわけじゃない。上場企業にでもなればそんな役割も付いてくるかもしれないが、今の自分にそんな心得はない。それにいかに会社が大きくなろうとも、手かせ足かせの会社運営なぞなんの妙味もなければ経営する醍醐味も精神の高揚も何もない。このまま残ってもお飾り社長になるだけでいずれ体よく追い出されるだけだ”
いくら考えてもその選択肢がないことを確認しただけで思考は停止する。
中野は会社を飛び出すことを決意した。例え蟷螂の斧であろうとも抵抗するしかない。
後は金である。いかに会社を高く売るか。自分が入れた1億の資本金の回収もあるが、しかしそれだけじゃ面白くない。会社は俺の努力で大きくなったのだ。塗装機械や車両など多少の資産もあり、額面どおりじゃ納得がいかない。収益力や将来性を加味すると倍くらいのプレミアムは付いても当然だろう。資産総額を持分法で按分しただけでは合点がいかない。新しい会社を作るにしてもそれくらいは欲しい。
樋口との残された取り引きはそのことだけである。
中野がそんな手前勝手な腹積もりを何度も思い返しているうちに、猶予期間の10日はあっという間に過ぎた。
樋口から呼び出しの電話を受けたのはきっちり10日を過ぎた翌日だった。
どうにでもなれという捨鉢な気分と、負けるものかという勝気が相拮抗したまま中国食品の社長室へ上がった。社長室もない自分の会社とは比べものにならない部屋の設えである。フカフカとしたソファーに腰を下ろすとなんだか落ち着かない。
「いかがですか。考え直していただけましたか」
何をシャーシャーと厚かましいことを、と思いながら中野は極力自分を抑えた。
「やはりこの話は受け入れることはできません。根本的に会社運営の考え方が違います」
「これまでどおり社長は中野さんにお願いしますし、会社体制も今までどおりと思っているのですがね」
「それはないでしょう。先日私の経営姿勢が許せないと仰ったじゃないですか。経営権も預かると。今更そんな方便は通用しませんよ」
“いくら虚言を弄したところでもはや腹の内は見え透いている。いいようにこき使って、いずれ追い出すつもりじゃないか”
中野は腹の中でそう毒づいた。
「行きがかり上の売り買い言葉ですよ。わかってもらえませんか」
「……」
中野は黙って首を振った。
「そうですか。それじゃ、残念ですが仕方ありません」
樋口はさも残念がってみせながら、気が変わらぬうちにと話を畳み掛けた。
「それでどうされるつもりですか。私と一戦覚悟で会社に執着しますか、それとも資本金とともに会社を出られますかな。私どもはそれ次第で対応を考えます」
樋口はあくまでも自分からの譲歩は明かさなかった。
「どうでしょう。お互いに袂を分かつことになった以上、つまらない怪我はしたくないと思いませんか」
「……」
今度は樋口が黙り込み、相手の出方をうかがった。樋口にしてもつまらぬ面倒は避けたい。どんな小さな怪我でも要らぬエネルギーは消耗したくないものだ。
「私は経営権も何も手放して会社を出ようと思います。そこで御社には会社をそっくり買い取ってください」
「そうですか。そうされますか」
樋口は胸のうちでヨシッとこぶしを振った。
中野にしてはそれしか方法はなかったのだが、樋口にとってもそれは最良の結論だ。
「よろしいでしょう。そう決断されたのなら仕方がない。それでいくら位を考えておられますか」
「収益力や資産簿価などを考えて会社の価値が5億。御社の持分と折半して2億5千万円で私の株を買い取ってくれませんか」
中野は、これなら十分乗ってくるだろう、多少の譲歩をしても2億は固いと踏んだ。
「中野さん。随分吹っかけてきましたね。あの会社にそんな価値はありませんよ」
「そんなことはないでしょう。これだけの技術集団がそっくり手に入るのですよ。収益力、将来性を考えるとそれくらいの価値は十分あると思いますがね」
「そんな甘いもんと違います。そんな価値はありません」
「しかし、価値があると思うから乗っ取りに来られたんでしょう」
「価値があるかどうかは利用の仕方次第です。技術のある会社は世の中にいくらでもある。しかしつぶれていく会社はいくらでもあるじゃないですか。そんな技術も時と場合では0になるのですよ」
「……」
中野は、こんなことも聞き入れてもらえんのかとむすっとした。
「それじゃいくらだと」
「中野さんの株を買い取るとしたら額面とおり1億500万円です」
「そんなバカな。会社をここまで育ててきたのは私だし、資産だっていくらかはある。技術力や将来性を考えたら5億くらい見積もったってけして的外れではないでしょう」
「それは違います。会社の将来性は収益力が付いてきての話です。いくら資産があっても赤字が続けばすぐに債務超過になります。会社の将来価値なんて現在価値に割り引けば大した価値にはなりません」
「収益力はあるじゃないですか」
「市場はあります」
樋口はわざと市場という言葉に置き換えて、強く言い置いた。
「しかし、わが社と袂を分かってどこに収益力がありますか。わが社との良好な関係が前提の話です」
「あッ」
中野は思わず声を出しそうになった。中野は大きな読み違いをしていた。
“そうか。会社の力なんてそんなもんか。親会社の傘下にあってこそか。だからこそ自立しておかなければならなかったのだ。しかし、これまでは中国食品にうまく取り入り甘い汁を吸ってきたのだから自分の信条としては間違っていなかったはずだ。誤算は樋口の生真面目な経営姿勢だけだ”