更新 2011.03.15(作成 2011.03.15)
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第6章 正気堂々 3. 悪事千里
浮田が帰った後、一人河村の心は揺れた。
後藤田がいる時代なら、こんな誘惑に惑わされることはなかったであろう。後藤田はいるだけで、人を律するだけの存在を意識させたからである。キリリと清澄な人格には誰もが身を引き締められる思いがした。
多くを語らなくても他人に影響を与えられる存在。それこそが、本当の偉大さだ。どちらかというと強面でカリスマ性を発揮する樋口とは対照的だった。
引退のカウントダウンも聞こえ始めた今、自制より老後の備えのために株で傷めた傷を回復させることはなんといっても心が揺れる。
“もしかしたら、株の損を取り返せるかもしれない”
“しかし、本当にうまくいくのかね”
ワクワクするような期待と不安がそこはかとなく心を揺らしたが、どちらかというと期待のほうがやや上回っていた。
“コレは経理にうまくやれるか確認せんと乗れるかどうかわからんな”
浮田ほどの悪党にはなりきれない河村は、毒を自分の腹一つに飲み込みきれない。つい誰かに確認したくなる。悪事千里を走る、の例えだ。
それから数日後、河村は伊勢を密かに自分の部屋に呼んだ。
「伊勢君よ。研修センターの土地の購入代金を、Y建設の第2口座に分けて振り込むことができるかね」
Y建設は、中国食品が研修センター建設のために購入した用地やその隣の空き地の持ち主である。もともと一つにまとまっていた3,000坪の用地だったのを、中国食品があえて分割して購入したものだ。今進んでいるのは、その残り用地の買い取りの話だ。
浮田の誘いを完全に信用し切れていない河村は、口座を分けて振り込む何かいい方法がないか、伊勢に尋ねた。
「そりゃ、やってできないことはありませんが、ちゃんとした理由があるんでしょうか」
「うん。税金対策らしいんだよな」
「しかし、ただの第2口座というだけでは対策になりませんよ」
「それは隠し口座らしいんだよ。わが社になにか問題が起きるかな」
「わが社は契約書どおりに振り込むだけですから特に問題はないと思いますが、もう稟議は済んでいるじゃないですか」
「うん。あの隣の土地だよ。あれも一緒に買うことが相手さんの要望なんだ。浮田さんが言うには、研修センター用地を少し高く買った分、この土地代でキックバックする約束らしい」
「なるほど。それが隠し口座なんですか?」
伊勢は、浮田ら2人の計略を見透かした気がした。
「いやいや。どうするかはまだわからないんだよ。そういうことを売主さんが言っているんだよ」河村は慌てて否定した。
「お前さんも株で大分やられとるんだろ」
河村はつい先日、自分が浮田に言われたことと同じことを言って、伊勢の気を引いた。
「分けて振り込んでもいいんだな」
今日の河村は積極的だ。伊勢と話をするうち、腹が座ってしまった。
「相手さんの要望ならいいんじゃないですか。それが隠し口座かどうかはこちらの関知することではないと思います。しかし、脱税と知って加担すれば幇助罪くらいは来るかもしれません」
伊勢は収賄のことまでは言及しなかった。
「その辺を詳しく研究してみてくれないか」
「どうしてそんな必要があるんですか」
「まあ、いいじゃないか。やってみてくれよ。研究するだけならやれるだろう」
河村は執拗に食い下がったが、伊勢はどうしてもその気になれなかった。
「いえ、私にはできません。誰か他の人にお願いします。すいません」
伊勢はそう言うと、逃げるように部屋を後にした。
こんなことがあって、悪事は千里の道をひた走り平田のところまでやってきたのだ。
「そんな話が進んでいるんですか」平田は伊勢の話に腹が煮え繰り返り、未だにそんなことを繰り返す守銭奴たちに呆れた。
「将来の営業所建設候補地だそうです。売主の税金対策なんて言っていますが、リベートに間違いありません」
「あそこに営業所は要らんでしょう」
「そう思います。だからリベートなんです。営業所建設候補地なんて理由付けですよ」
「それでどうしたんですか」
「そりゃ、きっぱり断わりましたよ」
「そりゃそうでしょうね。でなきゃ私に話しませんよね。しかし、まーだそんなことやっとるんですね」
「それで相談なんですが」
「あっ、そうでした」平田は、そう言いながら缶コーヒーをグイと喉に流し込んだ。とんでもない話についのめり込んでいた。
「これは確証のない私の推測でしかないのですが、これは絶対阻止せんといけんと思うんですよ」
「うん。そりゃそうです」平田も腹の中が煮え繰り返っていたが、努めて冷静を装った。
「しかし、僕らが確証もなしに社長のところにノコノコ出かけていくわけにいかんやないですか」
「つまり、誰がいいかって相談ですか」平田は先回りして尋ねた。
「それもあるんですが、むしろ僕は組合を動かせないかと思うんです。しかし、僕は組合と接触がないし財務の課長が立場上組合に駆け込むわけにいかんでしょう。平田さんのほうで組合を動かせないかと思っての相談なんです」
財務課長が動いたって何も問題はないし、組合もそれほど閉鎖的ではない。ただ、ニュースソースを探られたとき、自分の名前が明らかになるのを恐れたのだろう。平田はそう思ったが、伊勢のそんな用心深さを考えたときここまで打ち明けてくれたことは余程勇気が要っただろう、と胸のうちで褒めてやった。