更新 2016.05.27(作成 2011.09.05)
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第6章 正気堂々 20. 来期に
「ただし、一つだけお願いがあります」
樋口と野木の2人は今更何事かと固唾を呑んだ。
「ご存知のように今年からBIS規制が本格適用されることになりましてね、私どもも今大変な状況にあります。海外事業所がほとんどないわが行には、大手行のように事業に支障が出るようなことはありませんが、規制に引っ掛かること自体が許せません。銀行としての信用やプライドにも傷が付きます。それをクリアするには信用リスクを押さえ、自己資本を増やすしかないのですが、どれもそう簡単ではありません。そんな状況でありますから、例え500万でも今の我々にはズシリと重い負荷になります」
それはそうだ。相手の事情も考えずに機械的処理で済むかのように考えた自分を恥じた。樋口は、申し訳なさとわかっておりますという両方の意味を再度深々と頭を下げることに表わした。野木もつられて頭を下げた。ただ、頭取が恩着せがましく言っているのではないことは十分理解できた。
「そこで、3月までなんとか我慢してもらって、このオペレーションを来期に回してもらえませんやろか」
樋口を真似たのか、今度はなぜか頭取のほうが関西弁になっていた。
今や総資産数兆円、純資産数千億円を預かっており、樋口が言うように500万円の債権をどこかの不良債権に潜り込ませるくらいそれほど難しい話ではない。ただ、日々の業務においてはほんのわずかな節約にも血道を上げ、例え1円でも帳簿とキャッシュが食い違えば窓口業務の担当者全員が残って調べ上げるような鎬を削って業務に勤しんでいるのだ。BIS規制をクリアするために社員が必死でリスク減らしに苦労しているときに、無為に引き落とすことはトップとして許されない。それくらいの我慢はしてもらわねば社員への示しがつかない。
樋口は頭取の苦衷を察した。
“もはや、後3カ月の辛抱である。伊勢もそれくらい我慢せなあかんやろ”胸の内でつぶやいた。
「ようわかりました。無理をお願いして申し訳ありません。これで1300名の社員が救われます」
樋口は、またしても胸にジンと来るものを堪えて謝辞を述べた。
樋口の熱意は通じたのだ。
“バンカー”という言葉の響きからして、細かい規定や理屈に煩いインテリじみた神経質な男をイメージしていたが、H銀行頭取は案に反し意外と骨太の男だった。さすがに、3500名行員のトップに君臨しグループ会社を含めた5000名の配下社員に日々の業務を督励し号令するに相応しく、やると決めたことをグイグイ推し進めるバイタリティと逞しさを感じさせた。
中国食品の2代目社長の急逝によるにわか社長交替劇で小田社長が誕生したが、理念なき経営は悲惨な結果を招いた。会社は羞恥を知らぬ奸賊たちが我が物顔で跋扈(ばっこ)し、取引には須く利権が絡み、人事は媚び諂いが重用され、その結果社員の心は荒み業績は一気に下落した。折りしものバブル景気で一儲けを企む役員が、運悪く失敗。その付けが社員に押し付けられた。
年老いた役員たちは、会社を食い物にし、時期が来れば退職慰労金をもらっておさらばすればそれでいいが、残された若き社員たちはこの先何十年もこの会社と運命を供にしなければならない。サラリーマンである以上、会社が健全であるか否かは自分の人生が豊かで意義あるものになるかどうかに関わる大事な要件だ。
「会社を何とかしなければ……」
吉田や豊岡、平田、それに今は亡き作田らが会社と馴れ合い状態だった既存組合を乗っ取り、会社再建のために立ち上がった。1984年の夏のことだった。
それから2年。労働組合という立場を逆手に取った彼らの必死の株主への工作はついに実を結び、樋口という傑出した経営者を中国食品に迎えることができた。
平田は、浮田ら会社を食い物にしてきた私曲役員を浄化しない限り会社は良くならないと思っていたが、樋口の手法は違っていた。
樋口は、そんな役員は歯牙にもかけず施策面でのテコ入れに注力した。過剰投資と思える工場をつぶし、老朽化した営業所を建て替え、危殆な状況にあった財務を2回の社債発行で資本の充実を図った。樋口は、平田のように観念論ではなく、あくまでも政策優先で会社経営に当たった。その上で、社員へは自らの経営観と進むべき方向をメッセージとして発信し続けた。
それだけで会社は見事に立ち直った。特別高度な経営手法や難しい政策を導入したわけではなく、ただ、会社の異常と思えるところを修正しただけだ。それだけで会社は見事に立ち直った。異常が修正されれば会社は普通になる。樋口の凄さは、異常を異常と見抜く慧眼と修正する実行力だろうか。諸悪の根源だった役員を粛清し、社員に残された負の遺産の清算にも一定のメドをつけた。樋口はここまで、6年の歳月を要した。
小田社長が誕生し会社がおかしくなりはじめてから樋口が就任するまで7年。組織が元に戻るには同じ年月が要るといわれるが、概ね符合する年数だ。
社長交替劇から中国食品の組織の中に沸き出した黒いヘドロのようなものは、こうして全て浄化された。
豊岡のマンションで新組合組閣を謀議したときから実に8年が過ぎ、平田も既に41才になっていた。待望の本社復帰を果たし、本人の意識の外で知らず人事の顔になりつつあった。
平田は、ビジネスマンとしての最初の師匠である近野常務に、「大志を持って仕事をしろ。そうすれば仕事は数倍おもしろい」と諭された教示を、吉田らと会社の建て直しという使命に見出し、常に必死だった。
平田が伊勢の問題にここまで拘るのも、坂本がこうまで平田に協力してくれるのもそんな活動の流れを受け継いでいたからだった。
一方、今樋口が見つめているのは、これから先の新しい会社の姿と自らの引き際だった。
第1次中期経営計画は今年が最後の年だが、各目標とも概ね達成しそうな状況にある。そんな中で樋口は第2次中期経営計画の策定を経営企画室に指示していた。根底に流れるコンセプトは「魅力ある企業」であった。
そんな中で、研修センターの建設は着々と進み、翌年度の4月オープンと決まった。本来は中計の最後の年に完成が目標であったが、完成で終わりとするのではなく、中計と同時スタートがいいということで意図的に翌年にずらされた。もっとも、土地購入のゴタゴタで多少スケジュールが遅れたことも原因の一つにあったが、災いを転じた格好になった。