更新 2016.05.27(作成 2011.08.25)
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第6章 正気堂々 19. 蛇(じゃ)の道は蛇(へび)
「ご存知のように、私どもの会社は一時期存続を危うくしておりました。それを建て直すためにトップ2人を解任し、私が呼ばれました」
樋口は、初めからその質問を用意していたかのごとくゆっくりと、自分の経営観を語り始めた。
ここが今日の最大の山場だ。ここをはずせば今日の目的は達成できない。腹に力がこもるのがわかった。
「皆さんのご支援のおかげでようやく配当ができるところまで回復し、今将来に向けた会社建て直しの最中なのです。ここまで6年の歳月を要しました。工場をつぶしたり営業所を建て替えたり、血も汗も流してきました」
樋口は、感慨深さに胸がいっぱいになるのを覚えたが、頭取の手前気丈に押さえながら話を続けた。
「社員のマインドも、ようやく将来を見据えて前向きに立ち向かうことができるようになってきたところで、もはや昔の冬の時代に戻すわけにはいかんのです。会社基盤を堅固なものにするのはなんと言っても社員のスピリッツでありましょう。画竜点睛を欠きたくないのですよ。そんなときに起きたのがこの不始末です。私の計算の中ではちょうど帳尻が合うように退職慰労金を持たせたつもりですが、家を売り急いだせいか買い叩かれたのでしょう。少し足が出てしまいました」
新井が、当面の生活資金に500万円を持ち逃げしたかもしれないことは伏せた。
頭取は「なるほどそういうことですか」と大きくうなずき、樋口が清算のために経営として自ら注力したことを信じた。
「このまま経営者の不始末を社員に押し付けておきますとどうなりますか。社員と経営との信頼関係が保てますか。私の言葉が社員の心に響くでしょうか。ここは私が泥にまみれても経営の不始末に決着を付けにゃならんのです。1人の社員のためでもなく、私のためとか会社のためでもなく、社員全員の精神の拠りどころを守るためなんです。どうかわかってやっていただけませんか」
無理難題の要請であることを十分承知しているからだろうか、今日の樋口はいつもの豪気な姿は影を潜め神妙に出ている。かといって他に手はなく、慎重に神妙にお願いするしかない。あのヘビースモーカーぶりもどこへやら、タバコもまだ一本も手にしていない。エチケットやマナーのつもりではなく、樋口の真剣さの現れである。
「なるほど。そういうことでしたか」H銀行頭取は腕組みをしたまま大きくうなずいた。
そして樋口は、徐に最後の言葉を吐いた。
「残念ながら3つ目のご要望には答えがありません。あえて言わせてもらえば、冷徹なビジネスの世界にあって、H銀行さんだけは心の通う人情味のある銀行だという誉れが、ただし人知れずに残るだけでしょうか」
H銀行頭取はそんな樋口の言い分が可笑しかったが、顔には出さなかった。
そんな頭取を見やりながら、樋口はさらに付け足した。
「私もあえていやらしい言い方をしますれば、もし我々のわがままをお聞き入れ頂けるのであれば、わが社の御社への信頼関係と取引は更に強固なものになるでありましょう。ここにおります野木がその証人であります」
野木はどんなつもりかわからなかったが、頭取の目をひたと見つめて大きくうなずいてみせた。
「なるほど。お気持ちはよくわかりましたが、それがなぜわが社なのですか」
「ごもっともです」樋口は頭取の不納得を受け止めながら背筋を伸ばした。
「銀行さんが、地域の中で経済的にも社会的にも高い信頼と評価を得ておられるのは地域経済の発展に貢献しておられるからでありましょう。僭越ながらそれが銀行の社会的使命かと察します。ただ偏にそこを頼みとしてのお願いであります。その使命の中にはこのようなことも含まれませんか。それで1300名の社員が生き返るのです」
H銀行頭取の課題はすべてクリアした。
はじめからバーター条件を引き出そうなんて腹積もりはなく、部下への示しや会社同士が付き合っていく上での一つの儀式にすぎない。後はどういったスキームで決着をつけるかである。ここから先は自分の立ち回り次第だ。
「いやー、よくわかりました。社長の経営に対する並々ならぬお覚悟はさすがのものです。感服しました。私もトップとして大いに勉強になりました……。とはいえ、この債権を何もなく引き落とすことは銀行としては出来かねます」
樋口は大きく持ち上げられて一気に奈落に突き落とされた気がした。
「あきまへんか」
落胆と厚かましい要求をした自分を嘲弄するように弱々しい声を絞り出し、肩を落とした。
「まあ、最後まで聞いてください」頭取は手で押さえた。
「私も銀行のトップです。そんなことをすれば私の経営姿勢を問われます。しかし、蛇(じゃ)の道は蛇(へび)で、全く手がないわけではありません」
頭取はここで一瞬、「この一線を越えるか」という逡巡を目の色に表した。
その躊躇を察した樋口は、自分も一つ大きくうなずき返し頭取の決意を促した。
「この債権が不良債権になったらどうなりますか」
頭取は相手に考えさせる間を空けた。
「銀行とすれば引き当てして、最後には引き落とさなければならなくなります……。そういう手続きを踏めばよろしかろう」
そう言いながら頭取は、側にいる営業担当役員に目で言い聞かせた。
営業担当役員は、なるほどと合点がいったようにうなずいて返した。
「しかし、そうなりますとうちの伊勢には信用面で傷が付きませんか。彼はそうならないために、自分の信用を守るために、必死で歯を食いしばって耐えております」
樋口は一言一言しっかりと置くように問い直した。
「そうならないようにすればよろしいでしょう」
「そんな手がありますか」横から野木が今日初めて口を挟んだ。
「ただというわけにはいきませんで、ここは一つ大芝居を演じてもらいましょう。なーに、簡単なことです。伊勢さんに、うちの融資に金利の支払いが難しいと交渉していただきます。ただし全額不履行になりますとデフォルト債権となってしまいますから資産の差押さえ、売却が強制執行されてしまいます」
野木は背筋にゾクッとするものを感じ、眉をひそめた。一歩間違えば自分がその立場に置かれていたかもしれないことを思うと、冷たいものが流れた。
「そこで、毎月無理のない範囲で利息の一部を納めてください。極端な場合、千円でも2千円でもいい」
すると横から営業担当役員が、「それはちょっと極端すぎませんか」と口を挟んだ。
「だから、極端な場合と申しておる。なーに、どうせ引き落とすんなら同じだろうが。そんな小さなことに拘っては人を救うなんてことはできんよ」と、頭取は担当役員をたしなめた。
「それでどうなりますか」樋口は気が急いた。
「千円、2千円なら無いも同じでしょう。金利が少しでも入っておれば、わが行とすれば相手の資産を処分することはできません。わが行の中では破綻懸念先か実質破綻先として管理されますが、金融取引での信用には傷がつきません。それでしばらく凌いでもらって、その内我々に体力が回復した暁に不良債権として引き落としましょう。財務が健全なときにはこんな債務を残しておくことがかえって邪魔になることがあります。きっとそういうときが来ます」
「本当にそんなことができるのですか」野木は思わず口をついた。
「そのために来られたのでしょう。できるじゃなくてやるのです。社長がここまで社員のことを考えてくださったのです。後は野木さんがこれらとうまく話し合って決めてください」
H銀行頭取の男気に2人は言葉もなく、深々と頭を下げた。