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1灯を提げて

更新 2009.05.07(作成 2009.05.07)

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第5章 苦闘 8. 1灯を提げて

「いや。平田さんならきっとできます。平田さんは工場に転勤させられたじゃないですか。その気持ちですよ」
「あのときは悔しくて、悔しくて。そんな人事がまかり通る人事部が不甲斐ないと思ったね」当時を思い出し、今でも忸怩たる思いを抱いていることを改めて噛み締めた。
「それです。その人事部がしっかりする考えの持ち主が欲しいのです。その考えを一本しっかり持っておれば軸がぶれない。その信念に裏打ちされた具体的政策提言、それを川岸さんは期待されておられるんだと思います。他の者ではできない理由がここにあるんですよ」
「しかし、俺の考えなんかを受け入れてくれるやろか。さんざん団交で虐めてるしな。そんな人間関係が築けるかな」
「受け入れざるを得ないですよ。部長自身考えをまとめきれないんですから。だから交通整理して提案してくれる参謀が欲しいんです。団交なんか問題ないですよ。仕事ですから」
“そりゃそうだ。立場は違うが会社を思ってのことだ”平田もそう思った。
「浮田常務とちがってそんなに狭量じゃないでしょう。しかもそれを承知で呼ばれたんですから、問題ないじゃないですか」荻野は冷静に分析していた。
「しかし、何をしたらいいのかわからんよ」
「なーに。すぐ仕事がいっぱい来ますよ」
「苦労しそうだな」
「そうでしょう。でもやりがいがあります。工場なんかにいるより余程やりがいがあるでしょう。平田さんならできます。何も心配いりません。平田さんしかできないんですから」
「まるで、先の見えない闇夜を1灯を提げて行くようやな」
「違います。1灯じゃありません。今の人事の在り方に問題意識を持っている人はいっぱいいますよ。ゴマすり人間ばかりが横行して、このままでいいのかってね。それに私たち電算室は確実に応援します。2灯も3灯もあるじゃないですか。ぜひ来てください。いっしょにやりましょう」
荻野自身も人事の現状を憂えており、思い入れたっぷりに平田を説いた。
豊岡から組合に誘われたときもこんな喫茶店の密談からだった。そして苦難が始まった。今また新たな人生がここから始まろうとしている。平田は繰り返される歴史の舞台回しが可笑しかった。胸の中で苦笑いを押し殺し、ぼんやりと目の前の荻野を見やりながら新たな苦難の1ページが開くのを覚悟した。

翌日から本社人事部に出勤することにした。
“もし、死力を尽くしてもできなかったらそれは人事部長のミスキャストや”そう思い込まなきゃ覚悟は決まらなかった。
「お父さん、良かったじゃない。私はいつかそうなると思っていたよ。お父さんたちが一生懸命会社のことを考えてやってきたことが報われたのよ」妻はスーツやワイシャツの準備をしながら喜んでくれた。
「しかし、組合以上に大変なことになりそうや。家のことは頼むぞ」
「大丈夫よ。いくら大変でもお父さんが輝いているかぎり子供たちは大丈夫よ」
平田は妻に感謝していた。子供の養育や躾、学校や近所との付き合い、家事万般、金銭管理など全てを上手くこなしてくれていた。そのため自分は何も煩わされることなく、仕事のことに専念できていた。
初日は出勤準備に朝から大わらわだった。通勤にどれくらい時間がかかるのかわからない。9時始業だが8時には着いていたかった。可部までバスで20分。可部から本社まで1時間30分。おおよその見当をつけて6時に家を出た。
工場は8時30分始業だからどんなに遅くても8時に家を出れば間に合った。それを6時に家を出ようというのである。生活のリズムは完全に狂った。妻は早起きして準備してくれた。
会社には8時前に到着した。様子のわからない平田はエレベーターで8階まで昇ると、遠慮がちに部屋に入った。
既に可部から通っている岡村美子が出勤し、みんなの机の上などを拭いていた。
「おはようございます。ここが平田さんの席です」と案内して机を拭いてくれた。
「西山さんがみんな置いて行かれたので一通りの文房具は揃っていると思いますけど、要るものがあったら言ってください」
岡村は28歳の独身で、純真さと優しい人当たりがみんなから好かれていた。昔、組合の大会の受付などを手伝ってくれたりして平田も顔見知りである。
「ありがとう。よろしくお願いします」と、ちょっと照れくさくあいさつを交わした。
机に着いたものの平田は何もすることがなかった。イスの座り心地を確かめたり、興味深く部屋を見渡したりしていた。引き継ぎも受けていないので机の中を開けるのはためらわれた。
部屋の配置は入り口から左の一番奥に部長の席があり、その前に小さな応接セット、続いて小会議用のテーブルとイスが簡単な仕切りで囲まれていた。
人事課は部長席の斜め前で一番近いところに課長席があり、その前に課員の机が向かい合わせて3席とパソコンのラックが置かれていた。その隣にも4席向かい合わせて配置された島があった。主に給与計算を担当している女性社員4名の席で、人事課は合計8人だ。
さらに隣の島は厚生課で課長を含めて4名だ。一番右奥は教育課で3名の島があった。教育課の後ろの小部屋は健康保険組合の事務所で、2人の職員が常勤していた。
平田はそうした配置を観察しながらどんな人間模様なのか、期待より不安いっぱいにあれこれ思いめぐらせていた。
平田の席は課長席の左前に接して配置してあった。平田からは右隣になる。部長席はちょうど平田の斜め前だ。顔を上げれば嫌でも部長の顔が飛び込んでくる。視線が一番合いやすい位置だ。
そのうち、ポツリポツリとみんな出勤してきた。平田はドアが開くたびにペコリと会釈し、一人ひとり机の側に行って「よろしくお願いします」とあいさつした。女性社員の多くは、「よろしくお願いします」と気さくに笑顔を返してくれた。しかし、男性社員のどの顔もあまり歓迎のムードでないのを何となく感じた。意味はわからない。
“こりゃ、前途多難だな。大変なところに来てしまったかな”と平田の不安はさらに高まった。

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