更新 2016.05.23(作成 2009.04.24)
| 正気堂々Top |
第5章 苦闘 7. 相談
平田は困った。と同時に怖かった。本社行きは魅力だ。製造部からも離れたい。そんな思いは工場に配転になった時から強く持っていた。しかし、人事という仕事の見通しが立たない。他部署ならなんとか仕事の概要が掴め、何をしたらいいかおおよその見当がつく。しかし人事は一体何をしたらいいのか全くイメージがわかない。まさか給料計算するわけでもないだろう。団交には出席するが話は部長がメインでやってしまう。その裏で何が行われているのか。全く想像がつかない。それなのにノコノコ呑気に出かけていってできなかったらどうする。“せっかく呼んでくれた川岸さんに迷惑掛けるだけや。自分の限界も見せ付けられる”そう思うと怖かった。
“さて、困った”川岸からの直接電話じゃ無視するわけにはいかない。平田は逃げ場がなくなった。
“こんなときは誰に相談したらいいか”あれこれ考えて受話器を取った。
「平田です。久しぶり。ちょっと急なことで申し訳ないが、相談があるんやけど仕事抜けられんかな」
「いいですよ。それじゃ2時に‘楓’でどうですか」荻野は本社ビルのほとりにある喫茶店を指定してきた。
平田は相談相手に荻野を選んだ。相談事は、相手を間違えると人生を狂わせてしまう。これまでも野木や河原などいい相談相手がおり、その都度相談してきた。にもかかわらず今回は荻野を選んだ。野木や河原では今回は答えが見えている。それでは平田の問題解決にはならない。
荻野は平田より1才年下だが、もはや年令や経験の差など感じさせない信頼があった。彼が人というところで全く偏りを持たず冷静に性格や能力を洞察し、人間性や生き方に対しても冷静な考えをするからである。何よりも彼の言葉には人に対して自信と責任があった。普通の人間は「人」ということに関しては、大体当たり障りのない言い方でお茶を濁す。責任を負いたくないし、あいつが「こう言った、ああ言った」と揉めたくないからである。しかし、荻野は平田と話すときは自信を持って自分の意見を言い切り責任を持った。それが、平田が荻野を信頼する所以だった。
荻野とは一緒に釣りに行ったり、海に潜りに行ったりした平田の数少ない友達の一人だ。
平田は早めの昼食を済ませ、「本社に行ってきます」と工場を出た。
ハンドルを握りながら“俺に何ができるのか、人事とは何をするところか”聞きたいこと、相談したいことを整理しながら車を走らせた。
荻野は時間よりちょっと早めにやってきた。
「久しぶりです。元気そうですね」屈託のない笑顔を見せながら平田の前に座った。
「うん。苦労はないし遊んでばかりいるからな。」
「羨ましいですね。それが一番いいですよ。だけどもったいないですね」
「何が」
「いや、平田さんのことですよ。そんな遊ばせておくような人じゃないじゃないですか。組合も降りたんやし早く本社に来てくださいよ」笑いながら言っているが目は本気を物語っていた。おべんちゃらを言うような人間でないことは平田もよく知っている。だから今日の相談相手に選んだ。
「実はそのことで相談に来たんよ。斯く斯くしかじかで悩んどるんよ。どうしたもんかな」平田はかいつまんだ経緯と今日来た訳を話した。
「そんなこと悩むことないですよ。絶対来るべきです」荻野は、最後の言葉に力を込めて一笑した。
「しかし、俺に人事なんかできないぜ」
「それは違います。平田さんならできます。逆に平田さんしかいないのと違いますか。私も前々から平田さんが人事に来ればいいなと思っていたんですよ」平田を言い含めるように荻野の目が鋭くなった。
「俺は人事なんかやったことがないから全くイメージがわかんのよ。何をしたらいいのかわからんよ」
「そうでしょうね。人事なんてそんなもんなんですよ。考え方とかポリシーで進む方向が決まる。しかし、誰もそのポリシーを持ち合わせていない。だから何をしたらいいかわからない。それをしっかり持っているのが平田さんだと川岸さんが思ったんじゃないですかね」
「進む方向って何かね」
「例えば人事制度とか、人材育成とか。その方向性です」
「それじゃ、それを作るのが俺の仕事なのか」
「そればかりじゃないでしょうけど、人事部全体の考え方の司令塔みたいなことですよ」
「それは部長じゃないの」
「部長は大きな課題とか経営上の問題を提起する。それに対しての政策提言は部下の仕事でしょう。部長は自分の哲学とか経営思想に照らしてそれをジャッジする。それが本来の姿だと思います。人によっては細かなことまでいちいち指示する部長もいますが、そういう人にかぎってポリシーがなく上から言われるままに言うことがフラフラする。特に川岸さんは前者のタイプだと思います。むしろ自分の考えがどこまであるかわからんところがありますけどね」そう言ってフフッと笑った。
平田にはこの笑いが川岸の限界を見切っているように思われた。裏返せば自分の人を見る目に対する自信の表れだろう。
「人事部は今ものすごい問題が山積みしてるんですよ。人事制度にしても、賃金制度、評価制度、資格制度、教育制度、福利厚生、退職金制度など限りがないほどあるんですが、だれも気が遠くなるようで手がつけられない。他に係長・主任制度とか関係会社との関係整理とか、やろうと思えば無限にある。しかし、問題意識がなかったら何もする事がない。人事はそんな人が多いんです。個々の問題を考えることはできるんですが人事全体を総合的にコーディネートする人がいない。だから平田さんのような政策提言してくれる参謀が欲しいのとちがいますかね」
「俺がかい?」
「そうです。ピッタリだと思いますよ」
「冗談じゃない。人事なんて全く知らん俺にそんなことができるわけがない」
平田は話を聞くほどに、余計怖くなった。