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自信の人事

更新 2009.04.15(作成 2009.04.15)

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第5章 苦闘 6. 自信の人事

「それじゃお伺いします。優秀だ優秀だと言われますが、人事評価はBを付けておられるじゃないですか。B評価じゃ登用するときに引き上げようがないじゃありませんか。その気がないのと違いますか。そんな扱いなら人事で頂きます」川岸は持ってきたファイルを指で小さく叩きながら浮田を詰った。
これには浮田も返事に窮した。優秀と思いながらも自分を見くびっている憎たらしさからどうしてもA評価は付けてこなかった。しかし、人事の論理ではAが優秀であり昇進昇格には必要条件である。B(普通)の人間を引き上げるわけにはいかない。それにB評価は紛うことなく普通なのだ。
もちろんそこまで中国食品の人事制度が整備されているわけではなく、B評価の人間でも昇進した者はいくらでもいる。これは考え方としての川岸の理屈だった。
「今は育成中だからだ。育成中なのにAを付けるわけにはいかないじゃないか」浮田の苦肉のいい訳だ。
「そんなことありません。製造部におるころからBじゃないですか。それまでAだったのに常務が来られていきなりBが付いております。現に平田君の代わりにきた水沼君にはAを付けておられるじゃないですか。バランスからしておかしいでしょう」
「彼は優秀だからAを付けているだけだよ」
「それじゃ、平田君は優秀じゃないわけですね」
「育成中だ」浮田は怒鳴るような言い方になった。
2人の攻防は極まった。
川岸はこれ以上我慢がならなかった。
“そっちがそう出るならこっちだって”腹を据えた。
「どうしてもと仰るのなら仕方ありません。稟議で決めていただきます。トップから順に回しますがそれでもよろしいですか。全役員に対し、自信を持って反対されるだけの理由をお持ちですか。常務一人が反対の印鑑を押されますか」啖呵の切り方も堂に入ってきた。
「君!そんな無茶をするのか」浮田は思わず叫んだ。
「無茶を仰ってるのは常務のほうです」川岸も、負けずに大きな声で上から被せるように言い返した。
ついに浮田も黙り込んでソッポを向いてしまった。
「それでは、よろしくお願いします」
川岸は強引に押し切った。浮田が唇を噛むのを背中で感じながら、そう言い切って部屋を出て行った。
勝負はあった。浮田はまたしても川岸にやられた。川岸は、喧嘩の仕方は社内でも1、2を争うようになっていた。ここでも勝負の分かれ目は心根の持ちようだった。いかに常務の力を振り回しても川岸の堂々の正論に及ばなかった。私情や私憤では、真摯に全体のことを思う情熱にけして適わない。

人事部長と事業部門長とのせめぎ合いのようであるが、ここでは人事部と製造部という事業部長同士の駒の取り合いである。
人事部長が人事異動という職務の一環で各事業部長と調整する場合は、他に比較対象や代替案、更には他部門の言い分などの選択肢がある。全社的視点で会社のための人財の配分という大義名分があり喧嘩もしやすいが、今回は事業部同志である。力ずくの取り合いになったことでもわかるように、事業部長は人材を自分の所有物くらいにしか思っていないようである。大方の部門長は自分のところに優秀な人材を集めたがり、一旦手にした人材は離したがらない。しかし、人材は会社の大事な財産なのである。だからこそ適材適所で大事に育て活用しなくてはならない。一事業部長の思惑だけで軽々しく扱ってほしくない。何と言っても対象者にとっては人生を左右する一大事なのである。人事に携わる者はその重みを考えているだろうか。その心を持った人事であってほしい。
確か先般紹介した『喜怒哀楽の人間学』だったと記憶している。
『トップに立つ者は、大病かまたは挫折を味わっておくのが理想的である』というようなことが書かれていた。人の痛みがわかる人間たれ、ということであろう。

その日は突然やってきた。1990(平成2年)9月3日。平田は工場長の浜瀬からすぐ来るようにと呼ばれた。平田は、“やれやれ、また何か嫌味でも言われるのか”と重い足取りで管理室に上がっていった。
「明日から本社の人事部に行ってくれ」
「どういうことですか」平田はビックリした。あまりに突然で、喉に言葉が詰まって上手く言えなかった。
「知らん。人事部に聞いてくれ」浜瀬は、渋面を一層険しく歪めてぶっきらぼうな言い方をした。
「知らないって、そんな無茶ですよ」
「俺もさっき川岸さんから聞いたばかりで事情は何も聞かされていない。明日から人事部に来させてくれとだけ言われたんや」
「人事部に行って何するんですか」
「俺も知らんよ。転勤ちゅうことだけしか知らん」浜瀬の顔に苛立ちが隠せなかった。人事部といえば浜瀬にとって一番都合の悪いところだ。自分のこれまでの素行が人事部に筒抜けになる。それもよりによって一番邪険に扱ってきた平田が行くなんて。夢想だにしなかったことである。浮田―浜瀬の重しでがっちり押さえ込んでいけると思っていたのが、関係修復をする間もなくいとも簡単にその柵は破られた。浜瀬は絶対安心と思っていた浮田の庇護の傘にいくばくかの不安を感じた。
「転勤ですか。嫌ですよ。行きません」
「俺に言われてもしらんよ。とにかく伝えたからな」
「私も行きませんよ。事前の内諾もなく、辞令もなしに行きません」
“人事部に転勤なんて、とんでもない。人事の仕事なんて俺にできるわけがないじゃないか”団交を通じて人事の仕事の大変さと難しさは痛感していた。
平田は3日間人事部には行かず、今までどおり工場に出勤した。
すでに聞き及んでいるのだろう、浜瀬寄りの何人かは困惑顔で平田を遠巻きに避けていく。
3日目の昼前。品質管理室に川岸から直接電話が入った。
「ヒーさん。何しよるんかね。早よ来てくれ。待っとるんよ」
「いえ。ダメです。行けません」
「何を言っとるんかね。もう稟議は通っとるんや。今更変更は利かんよ。西山はもう営業に行っとるし席は空いたままなんよ」
「人事なんて私にはできません。迷惑掛けるのが目に見えています」
「違う。お前は自分の力を見くびりすぎている。お前しかおらん。俺が一生懸命考えた末の人事や。この人事には自信を持っている」
「いえ、買い被りです。行けません」
「何を言いよるんかね。もう辞令も出とるんやで」
「私はもらっていません」
「俺が持っとる。あんたの一大転機になる辞令や。直接渡そうと思ってな。大事に持っとる。製造部を通じて浜瀬なんかに任せたくないじゃないか。俺は人事部長や。こんな確かなことはないやろ。とにかく何も言わずに黙って来い。これは天命だ。いいな」
川岸は、しっとりとした言い方でそう言って電話を切った。

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