更新 2010.07.23(作成 2010.07.23)
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第5章 苦闘 52. あおり
この役員人事は社内に清新な活気を呼び込んだ。そろそろ限界かと腐りかけていた野心家たちが、もう一勝負と目を覚ましたのだ。樋口の狙いは見事に当たった。
しかし、役員になりたいという願望や先輩後輩という長幼の序だけでなれるものではない。役員になって何をしたいのかという志や、どんな会社運営がしたいかという経営の理念を持ち合わせていなくては経営を委ねる選択の対象とされない。そこには経営者としてのセンスやカリスマ性が求められる。幸いこの4人には、他の年長者たちと違う何かを持っていた。理念とまではいかなくてもそれぞれに何かを成したい志があった。堀越は社員を信頼で結びマンパワーの営業を実現したいと思い、青野は過剰投資で壊れた生産体制を合理的で効率的なものにしたいと願っている。新田は物事の本質を見抜く洞察力があり、現実的で気配りのあるバランスのとれた対応で定評があった。
中でも社員を、会社を人事から変えたいという川岸のそれは、特にわかりやすかった。
6年前、金丸や樋口が中国食品の社員たちと面談したとき、彼らはこのような思いを熱く語っていた。
このとき、川岸は46歳で最年少者だった。
一方で、地殻変動が起きたことでライバル同士の競争心が軋むこともあった。
川岸は年上の堀越と並んだと思い、堀越は「俺より若くて役員になって」と、そんなお互いのライバル心を熱くし、役員会の席などでは議論がぶつかり合った。一方でそれがお互いにいい刺激となってそれぞれの業務に邁進させた。
新しい役員が誕生するということは、その向こうにそのあおりを受ける人もいる。退任させられる人や、関係会社へ出される役員もいれば心太式にその関係会社の役員から退任へと追いやられる役員もいる。
後藤田もその一人だ。自ら「もう、そろそろだ」と言っていたこともそんな予感を感じ取ってのことだったのかもしれない。それが現実になる時が来たのだ。
平田は、大きな心の支えを失う寂しさで胸がいっぱいになった。その上、今回もまた浮田が生き残ったことが悔しくて悔しくて切歯扼腕する思いである。今でこそ、会社を食い物にする狂気は鳴りを潜めているが、なにかあるときにはきっとその貪欲な野生が目を覚ますにちがいないのだ。
人の運命とは、なんと不条理なことか。会社のためにいかほどの役に立っているかわからないおぞましい利己者が残り、師と仰ぎ支えと頼む人があっさりと退任させられるのだから理不尽極まりない。
世に比類なき人物は何か確かなものを後に残し、そしてそれが心ある人を大きく動かすという。後藤田も4人の英邁を残し、その4人が会社の中枢を担おうとしている。浮田が一体何を残すというのか。
平田は、寂しさと悔しさで懊悩したが、今は「頂門の一針」が下る日を密かに祈るしかなかった。
後藤田は社長を退任し、非常勤の顧問となった。
「俺に任せんさい」豊岡のその一言で、後藤田の送別会は豊岡の実家が営む料亭‘新川’で開かれた。組合時代の旧三役に川岸が入っているが作田が欠けていることと、今度こそが後藤田との最後の酒席になるであろうことが、宴席の雰囲気にどこか一抹の寂しい色を落としていた。
しかし、後藤田は吹っ切れた様子で満足げに旧交を楽しんでくれた。
「君たちに何度も送別会をしてもらって本当に申し訳ない」
「いいえ。それぞれに意味が違いますから何度開いてもいいじゃないですか」吉田がニコニコしながら受けた。
「私は一番いいときを生きてきたかもしれない。会社も今が一番いいときだろうからね」
「もう、思い残すことはないんですか」豊岡が遠慮なく切り込んだ。
「うん、ないね。最後にいい仕事もさせてもらったしね」と笑った。
それは、金丸と吉田の橋渡しのことを指しているのは明らかだが、そのことを明確に知っているのは吉田と吉田から打ち明けられた平田だけである。後藤田も皆が知らないことがわかっておらず、秘匿か公開かの記憶が混濁している。全ての責任から解放された気楽さも、それを後押ししているのだろう。
「君たちと出会えたことは私の人生の宝だよ。本当に面白かった。あんなに胸がときめいたのは初恋以来だな」
「それじゃ、私たちは恋人ですね」
吉田が茶化したのでつられて笑いが起きた。
「人はやっぱり誰かに頼りにされて、期待されているときが一番幸せだな……。そうだな、君たちの付託に応えよう、って思ったのもそれだな。それと自分が経営のはしくれでいながら正常化できていなかった責任感もあったしね」
「世の中、一人じゃどうにもならんこともありますよね」吉田は気を使って話の焦点を後者のほうに強調した。
「さっき、会社は今が一番いいときって仰いましたけど、もうこれ以上良くならないってことですか」平田らしい着眼で話の流れに乗った。
「会社はトップの器以上には大きくなれないものなんだよ。中国食品のトップとして樋口さん以上の人物はマル水にいない。いたとしたら本体に残る。だから樋口さんの時代がピークだろうって意味さ」
後藤田は樋口を引っ張ってきた経緯があるから、本来ならマル水の関連会社の中でもトップクラスのところへ行く人材で、辺鄙な中国食品などへ来る人材でないことを言いたかっただけで、もうこれ以上追求するなとぶっきらぼうな言い方になった。
「でも心配することはない。勝海舟の言葉だが、時勢は人を造る。樋口さんも人材育成に力を入れていくようだし、これからが君たちの活躍の場だろう。君たちが大きくしていったらいい」
「ところで、なんで浮田さんはいつまでも残るんですか。私にはわかりません」と、平田が少し憤慨した様子で不満を漏らした。
「そうよ。あんなん早よ首にしたらいいんよね」豊岡も乗じてきた。
「人の因縁の糸は、人間の絆を複雑に縫い上げているもんなんだよ」
「どういうことですか」豊岡が後藤田の難しい言い回しに仏頂面で尋ねた。
「浮田さんもまた、私たちの知らないところでマル水の中に強い繋がりを縫い上げているのかもしれないってことさ。そういうことにはぬかりない人だから」
「……」
みんな浮田の狡猾さを思い出しながら、そのしたたかな身のこなしに臍を噛んだ。
「人というものは、自分を守るためになにがしかの鎧を纏うものでね。それが知識や技術ばかりとは限らない。同志であったり、仲間だったり、コネや閥などあらゆるものが力になるんだよ。そのためには見栄も外聞もプライドも関係ないと思う人はいるよ」
「なるほどですね。そうすると浮田さんもなんかそんなコネがあるんですか」
後藤田は肯定も否定もせずニコニコ笑っていた。