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生え抜き

更新 2010.07.15(作成 2010.07.15)

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第5章 苦闘 51. 生え抜き

「今日呼んだのは、お前たちの覚悟を聞いておきたいと思ってな」
樋口は平成の四天王4人を社長室に呼んだ。
社長の大きなデスクの前に並んだ4人は顔を見合わせた。
「お前たちは身命を賭して会社のために働くと誓えるか」
そんなことを聞かれてノーと言う者はいない。
「はい。誓います」みんな口を揃えて答えたが、樋口の持って回ったような言い方に怪訝な顔をしている。
「実は次の総会でお前たちを役員に引き上げようと思っている」
「エッ」と思わず喉を突いて出そうな声を際どく抑えたが、4人とも目はまん丸に見開かれ、体は頭の先から足の先まで硬直してしまった。
「どうだ、やる気はあるか」
「もちろんです。光栄です」最年長の堀越がかろうじて答えた。
「そうか。受けてくれるか。せっかく推挙したが断られたでは株主様に申し訳が立たぬでな。もし、何らかの事情で受けられない者がいるとしたら今のうちに言っておいてくれ。後でも構わぬ」
「喜んで拝命します」「身に余る光栄です」口々に答えながら樋口を凝視した。
「俺はお前たちの力を高く買っているし、期待している。だから役員にしようと頑張ったのじゃ。マル水に認めさせるのにどれだけ苦労したか」
樋口は恩着せがましさたっぷりにもったいぶった。
「じゃが、このことは当日まで内密にしてもらわんといかん。家族に対してもだ」
4人ともその意味はおぼろげに理解していたが、樋口は用心深く念を押した。
「お前たちは早く言いたいだろうし、噂でも流したいと思っているだろう」
みんなが「いえ、いえ」と仕草で否定すると、
「いや、いいんだ。わかっちょる。それが人間の性というもんじゃ。だがな、俺はお前たちに念押しをしとかにゃならんのや。わかるか」
4人は雁首をそろえ、強張った顔でうなずいた。
「本当にわかっちょるのか……?」疑り深く大きな声になった。
「もしかして漏洩したときはお前たちを切り捨てにゃならんからな」そう言って人差し指を突き出し、4人の顔を横真一文字にスパッと切った。4人には十分過ぎるゾッとする一瞬だった。
「お前たちは漏れたところで大したことないと思っちょるかもしれんが、そのために話がつぶされた事例を俺は何度も見てきている」
樋口は革張りの大きなチェアの背もたれに体をあずけ、肘掛に両腕を乗せて一息入れた。
“役員の世界とはそういうこともあるのか”と、4人は緊張と不安で胸をいっぱいにしたまま直立不動を崩せなかった。
間が空けばヘビースモーカーの樋口はタバコに手が伸びる。真ん中に立っていた堀越がすかさず百円ライターでぎこちなく火を近づけた。
「お前たちは社員の全員が味方か。敵はいないか」タバコの煙を吐き出しながら樋口が唐突に問いかけた。
いると言えばマイナスイメージになる。いないと言えば嘘になる。4人は答えようがなかった。
「そんな奴はおらんわな。1人や2人は必ず敵はいるもんじゃ。また、それくらいでないと使い物にならん」
「……」4人はお互いの敵の顔ぶれを腹の底で探り合った。
“俺のほうが敵は少ない”“敵は多いが味方も多いぞ”などと都合の良いことばかりをあげつらっている。ライバルとしてなら自分が一番の敵のはずだがそれは勘定しない。
「その敵が問題なのじゃ。もし、お前たちが役員になるなんて噂を聞いたら何をするかわからんぞ。ある事ない事風評を流し、反対派の役員に取り入ってつぶしにかかるかもしれんし、もしかしたら株主に投稿するかもしれん。人の妬みとはそんなもんじゃ。もしかしたらお前たちライバル同士でやるかもしれんでな……」樋口は、鋭い視線でまるで弄(なぶ)るように4人の顔をのぞきこんだ。
4人は、胸の内を見透かしたような樋口の牽制に耐えるのが精一杯で、そんな作為も微かに脳裏をかすめたが、そんな悪意はすぐに打ち消した。この話を知っているのは自分たちだけである。誰が漏らしたかすぐに察しがつく。
人間、いいことは自分だけに起きてほしい。だから幸せを感じるのだ。そんな欲が全くないと言えるほど自分たちは高潔か。そんな自信はない。妬みもすれば恨みもする。嬉しければ喜び、はしゃぐこともある。ただ、それを押し殺して人間の深みや厚みを演出し、より上のポストにも似合う風格を醸そうとする悲しい習性が身に付いているだけだ。
「株主の了解も取らぬ前に、『あいつは、俺は今度役員になるようなことを吹聴していますよ』なんて噂を流されてみ。何を自惚れてやがるってなことになるだろ。そうやってつぶされていくんだよ」樋口はそう言って大きく煙を吐いた。
「役員になってからも同じじゃ。常に身奇麗にしておかなくてはならん。これからはいつでも首を切れるからな。俺の期待を裏切ったら許さんぞ」
今度は十分な脅しである。
驚きと戦(おのの)きと歓び、緊張、不安、あらゆる心のどよめきを胸いっぱいに募らせて解放された4人であるが、どのようにして自席に戻ったか覚えがないくらい地に足がついていなかった。肩と腕に力が入り、見開かれた虚ろな目を机の上に落とし、平静を取り戻すまでしばらくの時間が過ぎた。
平成3年1月29日、午後の社長室だった。

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