更新 2010.05.06(作成 2010.05.06)
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第5章 苦闘 44. 変化
「私も管理職制度がポイントだと思うよ。ヒーさんはなんでそう思うの。ヒーさんの考えをもう少し詳しく説明してくれませんか」坂本も直感的にそう思っているのだろう。さらに詳しく平田の考えを求めてきた。
「いや、私も確信はないんですが、ごますりが偉くなって会社を動かそうとするから会社がおかしくなるんでしょ。ちゃんとした志のある人が管理職に選ばれるようにならんと会社はいつまでも良くならない。単純にそう思っているだけです」
「なるほどね。そういうことか」坂本は簡単な理屈にやっと気付き、スッキリしたような相槌を打った。
「それに、一般職の人も管理職に信頼がおけなかったらやる気にならんでしょう。だから管理職像を明確にし、管理職に選ばれるためには何をしたらいいかを設定する。そうすると一般職の人もそれに向かって頑張れると思うんよ。必然的に管理職に求めるものは厳しくなると思うけどね」平田は自分の気持ちを説明するうちに、思いつき程度の制度構想があらましなロジックとして整理できた。
「ヒーさんとは一緒に組合もやったしヒーさんの思いはよくわかります。しかし、今の管理職の人たちは上にゴマすることで保身を図ってきたわけで、それ以外何もない人たちなんよ。彼らが変化に耐えられるやろうか。制度改革はそんな人からは物凄い抵抗を受けると思うよ。それでも決意は変わりませんか」と、坂本は平田の覚悟を推し量っている。
同時に、問題の根の深さと改革の難しさを言い当てているのもさすがに組合の委員長だ。
「私は一度人生を失ったようなものですから、少々のことではへこたれませんよ。それをやるために人事に呼ばれたんやと思っています」
平田は自虐の念を込めて決意を語った。
「小手先の制度いじりじゃないんやね。強い信念と将来的考えがあってのことに間違いないね。信じていいかね」坂本は何度も念を押した。
「川岸さんは人事の立場から会社を変えたいと思っている。俺は会社を変えるために人事の制度や運営の仕組みを変えたいんよ。それは川岸さんと確認している。俺の役割はそれを具体的にデッサンすることやと思うし、俺は俺なりの思いがある。川岸さんがどこまで俺を使うかわからんけど、俺を使っている間は信じてもらっていいと思う。もしその関係が崩れることがあったとしたら、川岸さんか俺のどちらかが邪な気持ちを持ったときやろう。そのときは厳しく見咎めてくれたらいい」
ここは平田にとっても一つの掛けである。本当に出来るかどうか全く自信はなかったがそれしか自分の生きる道はなく、信じてもらうより他になかった。
「皆さんの中にも係長や主任の方はたくさんいるじゃないですか。係長・主任ってなんですか。何をする人かわからんでしょう。だから、係長・主任が何ぞやははっきりさせんといかんことなんです。それを質していったら手当も変えなければいかんということに突き当たったんです。手当なんて小さいことじゃないですか。今からもっと大きな改革が起きてくると思います。そのたびに管理職や手当だと枝葉末節にこだわっていたら物事は進みませんよ。俺や川岸さんの言っていることが間違っているなら大いに反対してもらったらいい。しかし、正しいと信じてもらえるならこういう修正についてはわかってください」
平田は力を込めて懇願した。
「今は会社が変わるときなんです。トップが代わり、時代が変わり、会社を変えるために人も代わりました。今しかないんです」
もはや交渉委員に反論の余地はなくなった。
“変化”
変化するとは、一人ひとりの意識が変わり行動が変わることである。古くから言われ続けている命題であるが、一番変化できないのが人事労務分野ではなかろうか。それは人が大事という経営の根本問題を、安易に手を付けてはならないという聖域に錯覚させてしまっているからである。そしてその錯覚はいずれ巨大債務化し経営を行き詰まらせる。
日本の経営思想の中には、長い間景気の山谷を雇用で調節する選択肢がなかった。かろうじてその機能を果たしてきたのが賞与である。最近になって契約社員や派遣社員などが普及してきたが、リーマン・ショックでその仕組みが一気に非難の槍玉に挙がり、規制の対象になろうとしている。
しかし、彼らも組織に縛られないで自由に働きたいと言っていたのではなかったか。中核社員として働けるだけの自己努力を怠ってこなかったか。そのための身分保障の呪縛からの解放と引き換えではなかったのか。不況で仕事がなくなったときだけ社会が悪い、仕組みが悪いと叫んでみても、自分勝手な都合のよさばかりが際立ってしまう。そもそも競争市場で自由に働ける(自由業のように)ほどの技能や特技があるのかも怪しい。自由主義経済であるかぎりここにも市場原理は働く。もっとも、己の望むと望まざるとに関わらずやむなくそうした境遇に身を置かざるを得なくなった人には気の毒だが。
こうした制度を廃し資本を食いつぶし債務超過になるほど雇用を守って何ができる。資金は枯渇し、人心は荒廃し、信用をなくしては厳しい競争市場の中で生きてはいけまい。人が大事ならばこそ、合理的な雇用システムがいるのだ。もし、職種別賃金(役割主義人事)が日本に普及し、しなやかな雇用システムがあったら、契約社員や派遣社員などと巧妙な身分制度を被せられ、これほど劣悪な条件に買い叩かれなくて済んだかもしれない。日本は雇用の柔軟性を、雇用形態を多様化させることで補っている。
今、日本航空が経営に行き詰まっているが、ここでも雇用と年金が再建の足枷となっているようだ。日航も何度か変革のチャンスはあったようだが、そのたびに政官業のご都合のトライアングルと組合の保守性が変革を拒んだようだ。
こんなことを続けているといずれ会社は衰退し、それにつれ労働条件も悪化しついには雇用すら危ぶまれてくるのは自明の理だろう。それが人を大事にすることだろうか。
会社が変わるとは人が変わることである。トップから末端の一社員にいたるまでの意識が変わることである。その意識改革は、トップの呼びかけだけでなく仕組みや政策の全てのベクトルが揃い、龍蛇無鱗でなくては成し難かろう。
こういうとき、往々にして組合が反対するのはなぜだろう。長期雇用、長期経営を考えるとむしろ積極的に関わり、目先の損得や面子にとらわれることなくより合理的な雇用システムを目指すべきではないだろうか。
私の知るある会社は、厚生年金基金も健保組合も解散し、確定拠出型年金や国民健康保険に戻した。けして赤字経営ではなかったが、恒久的に債務を作り出すこんな制度を続けていては経営を危うくする。ここが潮時とあっさり解散した。福祉のわずかばかりのプラスアルファと経営リスクとを秤にかけての決断である。それを思うと多額の公的支援を受ける債務超過の日航の再建案はまだまだ甘くないか。示された削減案の年金水準でも、ようやく健全なそれも一流企業の年金水準並みになった程度であろうか。賃金もわずか5%削減されるだけだそうな。破綻企業ならばこれよりもさらに3割5割削減されてこそ、公的資金を投入する免罪符になるのではなかろうか。それでも当事者たちは「厳しい」と受け止めている。それほど人の意識は変り難く、変化することの難しさを物語っている。世間には、これより遥かに劣悪な条件で懸命に汗している人たちがごまんといるのに、だ。
一流企業、一流社員の意識が未だ根強く残っているのだろう。こんな状況に陥らせといて本当に一流ですかと問いたい。全ては人が成せる業なのです。