更新 2016.05.24(作成 2010.03.25)
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第5章 苦闘 40. このままでは
「こういう問題はだな」
そのとき、初めて樋口が口を開いた。瞬間、少し中弛みになりかけた空気に稲妻が走ったときのような軽い刺激が肌を刺し、場が締まった。
「将来は組織をまとめて外に出すんだな。そのために他の業務とセットにすることもあっていい」
「それはどういうことなんでしょうか」川岸は後学のためと勇気を振り絞って尋ねてみた。
「なんだ、勉強しとらんな。人事部長がそんなことじゃダメだぞ。少し総合企画をやってみるといいかもしれんな」樋口はそんな独り言をこぼしながら先を続けた。
「組織機能というものはその時その時の戦略で取り込んだり外に出したり変幻自在であっていい。人の問題だから軽々に扱ってはならんがこうでなくちゃいかんというものは何もない。そこにこだわると組織が硬直して変化への対応ができなくなる。それにこういう異質な性格の組織は内にあるときはなにかと鬱陶しい存在に映るが、外に出すことで組織自体が命を息吹くようになる。」
まだ、みんなが浮かぬ顔をしていると、
「まだわからんのか」と、樋口は苛立ちを表わした。
「つまり一つの会社として独立させるんじゃよ」少し声が大きくなった。
みんなが「エッ」という顔を見せた。異質な存在とはいえ、これまで苦楽を共にしてきた仲間だ。外に放り出すようなことは忍びなかった。そんな仲間意識的な温かさが中国食品には色濃く残っており、それが中国食品の良いところだった。しかし、その緩さは競争という厳しい現実に晒されたとき、ぬるま湯的側面を露呈し経営を危うくすることだってあるということを、今の中国食品の多くの社員にはまだ直感的に認識するだけの歴史的蓄積がなかった。ようやく、過剰投資、過剰設備、過剰雇用が経営を圧迫する最大の要因であることを学習し、立ち直ったところだ。
樋口は他の役員のそんな戸惑いに気付いたが、そんなことに頓着するより分社化の功徳を語り聞かせることが大事と先を急ぐことでその場を収めた。
「独立させるとこちらからは外注になるが、向こうはこちらがお客様になるからサービスが向上する。それに今は陰の存在だが独立することでその技術そのものがビジネスモデルになる。脇役に甘んじなければならなかった立場から主役として管理職や役員への道も開け、サクセスストーリーが生まれるというもんじゃ。それでモチベーションが上がる」
川岸は企業独自の機能や組織についても離合集散が自在であることを教えられた。樋口の人への配慮ばかりに気をとられ、経営として会社全体の組織のありようまで考えきれていなかった。まだまだ経営としては勉強不足を気付かされた。
「それはいつごろでしょうか」ついでに聞いてみた。
「そろそろ考える時期に来ておるが、今のままではいかん。もう一工夫も二工夫もいる。ただ、デリケートな問題だから慎重にやらねばならん。下ごしらえも仕掛けもいるが、それは俺がする」
“どんな下ごしらえや仕掛けがいるのだろう”川岸は俄然興味をそそられた。
樋口が何を考えているのか、この時点では誰も察することはできなかったが、分社化という新しい試みがあることを皆が納得の思考の中に落とし込むまで短い沈黙が流れた。
その沈黙を破るように河村が続けた。
「この案は、これからの人事は賃金だけでなくポスト任用も、実力や能力主義に移っていくということを意味しているのじゃな」
「どのような制度にしたらいいのかはわかりませんが、少なくとも年功的処遇は限界かと考えております。今回のご提案はそんな考え方の一片がこのような形になったに過ぎないものでして、全体の見直しにつきましては既に人事で研究に着手しております」
「我々もその覚悟をして社員に接したほうがいいのかな」
川岸は質問の真意がどこにあるのか理解しかねたが、立場は何かを答えなければならなかった。
「社員からしますと、役員とは即ち会社そのものでございます。社員が会社を信じる信じないは役員の信認そのものでございます。その関係を取り持つものが各種制度であったり仕組みや決まりごとであります。特に人事制度はその関係を顕著にします。これまではそうした制度や仕組みが、どちらかといいますと家族主義的なウェットな性質が強かったように思われます。それは人事制度をはじめとする全体的仕組みの根底に、会社の体質として流れているように思われます。創業期にはそんな温かさが社員の安心感を誘って頑張りに繋がった要素も否定できませんが、今やグローバルな時代を迎え若者を中心に社員気質も変化してきております。そろそろそうした日本的経営から脱却し近代的仕組みに変えていかなければならない時期に来ておるように思います。とはいえ、急激に『さあ、これから……』と声高に申しましても社員が戸惑うばかりですし、人事としましてもやっとこの問題に取り組める体制ができたばかりで、具体的に形が出来てくるのはまだまだ先のことになります」
川岸の説明は長くなった。
河村がそれで納得したかどうかはわからなかったが、思い当たるフシもあるのだろう、それ以上の追求はなかった。
こうした論議を経て、移行原資を確認した定例役員会は
『係長・主任制度の改定』について
(副)「管理職手当の改定」について
を承認した。