更新 2016.05.24(作成 2010.03.15)
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第5章 苦闘 39. 代理提案
管理本部長で常務の新井は経理が専門だから人事のことがわからない。いや、役員といえども大体において人事労務や財務経理については苦手とする人は多い。極秘扱いにされることが多く馴染みがないからである。
「私は今、決算で忙しいから係長・主任制度に関わっている暇がないんだよ。役員会は川岸君が説明してくれないか」と、川岸を頼った。
「任せてください」川岸は待ってましたとばかり、胸を叩いた。
樋口の前で提案できるのだ。川岸は雀躍して喜んだ。
3月5日火曜日、ナショナルベースの春闘が第1の山場を迎えているころ、川岸は役員会議室の外で顔を紅潮させて待機した。準備万端怠りなく、説明のシナリオを何度も繰り返しシュミレーションしてきてはいるが顔は強張っている。
人は自信がないときに上がる。川岸は、もともと度胸があり誰よりもよく考えるから上がることはないが、大舞台での緊張は隠せない。
中で、新井常務の番が来た。
「さて、前々から何かと問題視されております係長・主任制度ですが、本来私自身がご提案申し上げるべきではありますが、あいにく私は今決算業務に忙殺されておりましてこの問題に関わる余裕がございません。かといいまして問題を遅らせるわけにもまいりません。そこで、僭越ではございますが人事部長の川岸君にプレゼンさせたいと思いますので何卒ご了承くださいませ」
新井はそう言って秘書課長の森に目配せした。
森は一旦部屋を出た後、川岸を伴って再び会議室へ入ってきた。
ゆっくりした足取りで入ってきた川岸は入り口で深く一礼をし、森とのリハーサルどおりプレゼン用の演台の前に立った。
「それじゃ、川岸君説明してくれたまえ」新井は説明を促した。
「はい。かしこまりました」川岸は大きな返事を返し、勇躍説明に取り掛かった。
「今や日本経済はグローバル化し、企業の競争環境も円高によりさらに厳しさを増しております。個別の企業におきましても、経営の基本的仕組みを国際競争に耐えうる効率的なものに変えていかなければ生き残っていけなくなってまいりました。同時に、バブル崩壊で右肩上がりの経済神話も過去のものとなった今、人事労務部門におきましてもポストや賃金など年功的処遇から脱却し、新しい合理的な仕組みが求められるようになってまいりました。翻って、わが社の人事諸制度は創業以来ほとんど見直されることなくきておりまして、会社の成長とともに制度疲労や機能不全が見られるようになり、大きく見直す時期が来たように思われます」川岸はそこまで澱みなく一気に話し、一息入れた。樋口に視線を回す落ち着きも生まれた。樋口は黙って資料に見入っている。
「今回のご提案で最も肝心なことは、ポストは固定的なものでも、また職位はその人間に与えられた特権でもなんでもなく、役割であるということです。その役割に最適な人材を任命する。ごく当たり前のことでありますが、現在の運用はポストが資格化したり硬直化したりする弊害が見受けられます。そこで今回のご提案は、係長・主任といえども組織の戦略で変幻自在に拡大縮小を行い、決して硬直したものではないという考え方を明確にすることであります……」
川岸のプレゼンテーションは上手かった。経営的環境変化から係長・主任とは何かのそもそも論を経て、何故改定しなければならないかを丁寧に説き、春闘での移行措置、今後の課題まで堂々と披露した。声も大きく澄んでよく通る。
「なるほど、もっともな考え方だが役割というのは何かね」役員の1人が尋ねた。
「職務分掌規定に各部署の職務内容が記載されております。これは組織編成時に担当部署が設定いたします。この職務内容を責任をもって遂行するのが管理職の役割であります。従って管理職はこの役割が明確であます。ポストはこれらを包括的に意味するものであります。当然のことですがそれを全うする最適任者の観点で人材を選任しております。ただ、係長・主任につきましては役割を記したものがありませんし、またそれをこうした大規定に盛り込むのも適切ではありません。従いましてお手元の資料のように人事部の内規として指導、監督職としての役割を設定いたしました。組織がこの職務を必要としたときに設置したいと考えます。不要と判断した場合は係長・主任のポストを削減することもあります」
川岸は、平田と事前にシュミレーションした想定問答を自信たっぷりに答えた。
「しかし、係長や主任に任命することで社員のモチベーションを刺激してきたのも事実じゃないか。社員はもう、やる気を出さなくてもいいのかね」
浮田は、これまで川岸にさんざんやられた恨みを隙あらば晴らしてやろうかという魂胆をありありと滲ませ、薄笑いを浮かべながらトゲのある言葉を川岸に投げた。これも想定内だ。
「はい。それは社員全員に言えることでありますが、そうやって次から次に人を送り出し続ける時代は終わったのではないでしょうか。ポストは自動的に回ってくるものではなく、自らの実力で取りにいく、そんな時代が来たように思います。それに、そんなことで上がるモチベーションは本人だけの一時的なもので、他の多くの社員は“なんであんな奴が”という疑問と不満が燻るだけであります。ポストが行き詰まりますと名前ばかりの不要な肩書きを上にも下にもやたら作らなければならなくなり、屋上屋を重ねるポスト乱造に繋がります。既にそんな兆候も見受けられます」川岸は最後の言葉に含みを込めて強調した。
それは製造だけにある副主任のことを指しており、浮田もそれを察して黙り込んだ。
そんなやり取りも川岸はなんなくこなし、議論は進んだ。ほぼ想定した論議は出尽くしたと思われたころ、突然営業常務の河村が一石を投じてきた。
「実は、私も今はこれしかないと思っているんだが冷機技術課のことなんだ。これから先もこの形がいいのかな。営業という組織の中で異質な存在なんだよ。そのため組織運営がギクシャクして所長たちが扱いに苦慮している。人事としてどう思っている」
そのことはこの改定案をまとめる過程の中でも浮き出てきた問題で川岸も認識している。そのためこのような案になったのだが、将来のあるべき抜本的解決案まで自分の中でまだ整理しきれていなかった。
「それは私も同じ認識を持ってはおりますが、さりとて今すぐどうすることもできません。もうしばらく検討課題ということで研究させていただきとうございます」川岸は思いがけない投げかけに多少どぎまぎしながら答えた。