更新 2016.05.26(作成 2010.04.05)
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第5章 苦闘 41. 信奉
役員会終了後、樋口は川岸を社長室に呼んだ。
「人事を変えるのか」
いきなり問い詰められ川岸は緊張した。
「はい。今のままでいいのか疑問に思っております」
「人事というのはな、思いつきや目先の経費削減なぞで闇雲に小手先の制度ばかりをいじくっても何にもならんぞ。公平感だけでも実力主義だけでもダメだ。全てがないとダメなんじゃ。社員に生き生きと働いてもらうには哲学が要る。その哲学とは俺の考えそのものじゃ。お前さんにそこまでの用意はあるのか」
川岸は厳しい追及に背筋に冷たいものを感じた。
「いえ、哲学などという高邁なものは持ち合わせてはおりませんが、今のわが社の社員の姿としてこのままでいいのかという疑問ばかりを持っております」
「どう、いけないのじゃ」樋口は川岸の本気度を探っている。
制度をいじることで会社に根付いている風土や伝統といった文化が壊れ、混沌とすることを恐れたのだ。それを避けて改革をやるには本気がいる。
「社員の心が卑屈に歪んでいます。社長が来られて少しは良くなった部分もありますが、それはほんの一部の志を持った社員が社長のお姿に応えただけでして、まだまだ多くの社員の心に旧経営の残滓が……」と言いかけて最後の言葉を飲み込んだ。そして、
「まだまだ多くの社員の心には古い体質を残しております」と言い直した。樋口の前では例え旧経営陣のことでも経営批判は避けなければならない。
「どんな体質じゃ」
「はい。まず言われたことしかしません。自分で責任を持って何かを成そうとする気概はまるっきりなく、上役に対しては媚びへつらうばかりでまして諌言する気概なぞ露ほども感じられません。年功処遇で安泰しているから緊張感もなく規律も乱れ、積極性も責任感もありません。会社が赤字に苦しんでいる一時は倒産の不安から真剣さも見られましたが、業績が回復してきましてからはそれに安心しきって本気で物事の本質を考える努力を放棄しております。そんなことでよろしいのでしょうか」
「それでお前さんはどうしたいのじゃ」樋口の追及は厳しかった。
「会社が儲かって、賃金さえもらえば社員は幸せでしょうか。やりがい、生きがい、何よりも会社との信頼がなければ寂しいかぎりです。その信頼は人事が作るものだと思っています。能力主義か成果主義かわかりませんが、一つの約束事のもとに社員と会社が信頼を築き、その信頼に基づいて社員が社業にまじめに励む、そうあってほしいと思っております。上役の顔色ばかりを見ながら卑屈に背中を丸めて生きるのでなく、志と誇りを持ち堂々と胸を張って真摯に業務に励む、そんな会社になってほしいと思っております。社員とのそうした信頼を築くために、まず正しい制度構築と正しい運用がなされねばならないと思っております」
「えらく並び立てたな」俺の経営に不満でもあるのかと言わんばかりに顔が歪んでいる。
「申し訳ありません」
しかし、川岸が言っていることはある意味で正しかった。会社も経営も信じられない中で社員が生きていくために、卑屈に腰をかがめ、上目使いで生きていくしかなかった長い冬の時代に染み付いたその習性が抜けきらないのだ。心無い経営者が落としていった影は未だ大きかった。それ故に正しい制度や正しい運用が必要なのだ。
「それを解決するのがお前さんの役割だろう」
「はい。そう思ってもがいております。私は、ただ処遇や制度の問題としてではなく、人事の使命として会社を変えたいのであります」
「ウン」樋口は黙ってうなずきながら聞いていた。
「社員自らの意思や信念に根ざした熱い思いがぶつかり合い、それが社員を鍛え、会社を強くしていく。そんな風土を作りたいと思います。社員が自分で考え、自分の力で歩き出したとき、次の困難も乗り越えられるハズです。そんな逞しい社員集団にしたいと思っております」
無論川岸が言っているのは全社員のことではない。そうした一部の社員が保身のことばかりを考えているのが許せないのだ。全社員がそうだったら会社はとっくに沈んでいる。
「できるのか」樋口の言葉は懐疑的ではあるが、期待する気持ちが響いていた。
「やります。このままではいけません。先を見据えて一歩一歩踏み出さなければ何も解決しません」川岸は強い決意を滲ませた。ここは賭けだ。
川岸の必死の決意を聞いていた樋口は、「ウーン」と唸りながら腕を組みしばらく黙り込んだ。川岸の本気を自分自身に納得させているかのようだ。
「そうか、わかった。それならばお前さんは俺から離れるな。俺の考えの全てを吸収しろ。いいか。人事というのはな、どんなふうに改革しても根底に人に対する哲学がないとどのようにも変わっていかん。その哲学がないところには人は背を向ける。お前さんは俺から離れるな。俺と一緒にいる、それだけで考えが組織に浸透していく。なに、蟷螂の斧にしないためだ」
このとき樋口は、川岸を自分シンパの第一位者と踏んでおり、これからの精進次第では使えると思っていた。働きによってはそれなりの処遇もと考えていたにちがいない。ただ、この段階では1部門長としては及第点をあげられるが経営者としてはまだ未知数だ。
「はい。願ってもないことです。よろしくお願いします」川岸は弾けるように返事を返し、深々と腰を折った。
同時にこのとき、川岸の樋口信奉が明確に意識された。それは俗に言う媚び諂いの類ではなく、自らの理想をトップの哲学で艤装し、それを実現するための意義ある信奉だ。
信奉される者とする者のお互いが、理念や理想で強く引き合い信じ合ったとき、強い絆ができる。
春闘の交渉が終わった打ち上げの席のことだった。
ビールビンを提げて平田の横に来た川岸は、ドッカとあぐらをかき平田にビールを勧めながら今の心境を打ち明けた。
「これから俺は徹底的に樋口さんに付いていく。そうしないと夢が実現せんだろ。それに俺だけでなくお前たちも仕事ができない。トップの信頼なくして何ができる。お前たちを生かすためにも俺は付いていく。これはごますりではないぞ。口舌の輩にはそう言う奴もおるが言わせておけばいい。俺は俺の夢のために樋口さんを利用する。トップとはそういうもんや」
それは平田も理解できた。自分だって川岸の後ろ盾で仕事している。それがなければ組織につぶされる。それが現実だ。また、そんな部下を守れるような上司でなければ部下に仕事をさせる資格はない。
しかし、そんな信奉も会社や社員のためという純粋な精神があって初めてみんなに認容されることだ。平田が、かっての上司で最初に自分を認めてくれた近野や後藤田に傾倒したのもそれがあったからだ。ただ、残念ながら製造部の浮田にはそれが感じられなかった。たったそれだけのことだった。