更新 2016.05.24(作成 2010.01.07)
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第5章 苦闘 32. 都合のいい話
「俺たち部長職という立場から見ると係長や主任は人間の銘柄選別にもなるんよ」
平田は「銘柄選別」という言い方が気に入らなかった。平気で人を物のように例える無神経さに品がないと思ったが、わざとするそんな言い方がこの男の人懐っこさを演出していると思った。
平田が「銘柄選別」の意味を理解しかねていると、
「課長だけであとは全部平だったら優秀な者もそうでない者も、ベテランも新米も玉石混交になって顔が見えない。それが係長になったとか主任になったとかなると、あいつもそこまで成長したか、次は課長としてどうか、という見方ができる」と解説をしてくれた。
「なるほどですね。そういう見方もあるんですか。将来のステップアップのためには結構大事というわけですね。いやー、大変いい勉強になりました。ちょうど悩んでいたところで助かりました」
「そうか。参考になったか。まあ、また来いや。いつでもいいぜ」
このように自分の有為さを自慢するのも新田のクセで鼻に付いたが、慣れるのに時間はかからなかった。
新田が得意になりいいムードになったところで、冷め切ったコーヒーを一気に飲み干し平田が立ち上がりかけると、
「ところでお前はまだ引っ越さないのか。本気で仕事をしようと思えば可部にいちゃダメだぜ。どうだ俺の団地に引っ越してこないか」と転居を勧めてきた。
“大きなお世話よ”と思ったがつい乗ってしまう話だ。
「やっぱり引っ越さなくちゃいけませんかね」
「引っ越さにゃいけんということはないが、お前たちのような人事の中枢で会社の礎を担うものはそれくらいの覚悟と本気度を持ってやってほしいということよ」
「しかしですよ。会社も都合がよすぎるじゃないですか。ここだけの話ですが」平田は声を落として屈み込むように話した。
「今まで6年間も工場の隅に押しやっといて、さあ今度は人事で本気で頑張れ。家まで替われ、って言うんでしょ。私もそうしようかなとは思ってはいるんですが、会社から言われたらなんか都合のいい話だなと思いますよね」
そんな思いがせっかくの新田の勧めも“大きなお世話よ”という気持ちにさせる裏側にあった。
「今度はお前がその会社になるんじゃないか。そんなことに拘ってたらいい仕事は出来んぞ。そんなことも忘れて心機一転出直すためにこっちに来いって言ってんだよ」新田は少し忌々しそうに口を歪めた。
「まあ、ちょっとグチってみただけですよ。本当はわかっているんです。実は私もどうしようかと考えているところなんですよ。どこかいい所があればいいんですけどね」
「考えることなんかないさ。可部からじゃ通うのが大変だろう。通勤だけで体力が消耗してしまう。俺のところは便利だぜ。環境もいいし、住んでる人間のグレードがいい」
新田が住んでるB団地は15年ほど前に開発された大型団地で、環境や交通、買い物、教育など好条件が評判で広島でも最も人気の高い団地である。バスが団地の中まで入っており、JR可部線の駅も団地入り口から健脚なら徒歩で10分くらいだろう。山陽自動車道の広島インターが目の前にあり、今度はアストラムラインという新交通機関のB団地駅ができる予定でますます人気に拍車がかかっている。買い物もスーパーや飲食店が団地の中央にあり、郵便局、内科、小児科、外科、歯科、動物病院まで整っており日々の生活に困ることはない。近くを走っている54号線沿いは再開発が進み大型小売業や専門店、飲食店が次々と開業し一大商業地を成してきた。住むには最高の利便性が整っていて平田も1、2度下見に行っている。
「何度か見に行ったことがあるんですが高いじゃないですか。手が出ませんよ」
「多少高いかもしれんがそれだけの価値はあるよ。アストラムラインが開通するともっと価値が出てくるぞ。頑張ってみろ」
「部長はバブルの前でしたからいいですけど、今は弾けたばっかりですよね」
「バブルが弾けての値下がりと利便性からの人気とが拮抗してここはあまり値下がりせんぞ」
“うん”平田は内心でうなずき、“やっぱりこの辺りに越すか”とその気になりかけた。
この日の話を切っ掛けに、平田と新田の距離は一気に縮まった。
平田は新田の話を聞いて今まで以上に家探しに本気になった。これまで大手不動産会社の担当者と2度ほど広島のベッドタウンと言われる広陽町や古市方面など広島をドーナツ状に取り囲む住宅地を探してみたがなかなかいいのがない。新田の住んでいるB団地も1度見ているがなかなか売り物件がなく、あっても高くて手が出せない。他の団地の手ごろなものはそれなりでしかなくて気乗りがしなかった。
そんな中で1つだけちょっと高くて手が出ないと諦めていたがどうしても気になっているのがある。それは外から観ただけだが、薄いベージュ色の外観を大屋根で覆ったどっしりとした落ち着きのある美しい佇まいを見せる一軒だ。価格が高いので中を確認しないまま次に進んでいた。
営業マンはしきりに勧めたが平田の予算を1割以上オーバーしており、無理だとあきらめていた。その物件は東南の角地で55坪の敷地は日当たりが抜群に良く、築10年の建屋は延床面積が44坪と好条件だったが総額3,480万円と高かった。これに仲介手数料や登記費用、取得税、ローン設定費用などが掛かってくる。中古物件なので照明は付いていたがカーテンなどはあつらえなくてはならない。
仲介手数料だけでも3%だから100万円は超える。物件の1割は余計に経費が掛かることは知っていたから、3,480万円の物件はとても手が出ない水準だ。平田が妻と確認した上限金額は3,000万円までだった。
新田の話を聞いて本気になった土曜日、3度目の物件探しのときである。
「平田さん。もう一度B団地を見てみましょう。平田さんの要望を満たすのはあそこしかありませんよ」そう言って営業マンは車を走らせた。
「何か新しい物件でも出たのかね」
「いえ。新しいのはありませんがもう一度一件一件しっかり確認していきましょう」
営業マンは隣の団地まで広げて案内してくれたがいくら見てもやはり平田の気に入ったものは出てこなかった。
「やっぱり今日もダメか」と諦めかけたとき、
「もう一度例の物件を見てみませんか」と営業マンは車を回した。
それは平田が唯一気に入っていたが高くて手が出ないと諦めていたその物件である。