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先を見越して

更新 2016.05.24(作成 2009.10.05)

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第5章 苦闘 23. 先を見越して

川岸は、団交の行き詰まりを社長に報告した。本社部長になり役員レースへの参加資格を得たと考えている川岸にとって、社長の信任を裏切ることは慙愧に耐えられないことである。聞き分けのない組合の対応は忌々しくてしょうがなかったが、交渉をこじらせて争議行為に入られてはなお困る。川岸は、多少オーバーとも思えるくらい神妙な顔付きで樋口を訪ねた。
「組合はどうしても1人当たり前年同額くらいは欲しいと言っていまして、話が暗礁に乗り上げております」
「会社は前年以上の人件費を出しているのだろう。君はそう言って説明したじゃないか。」
「はいそうですが。組合もそこが死守ラインとしているようなんです」
「よし、わかった俺が出る。設定しろ」樋口は自ら団交に出ると言い出した。樋口には将来の計画がある。そのためには今年の決算は大きな意味を持っているのだが、そのことを組合に理解させるには自分でないと通じないと判断した。
川岸自身も必死で経営の立場になりきり、会社の考えや実状を主張し、交渉の流れをエンディングストーリーに仕向けているのだが、組合への説得力という点においてははるかに樋口に及ばない。平部長の川岸ではまだ会社経営に賭ける思いや覚悟の丈が違った。樋口から見るとまだまだ青二才なのだ。
業務終了時間はすぐそこまで迫っていたが、強引に交渉の場を設けた。
組合にも緊張が走った。トップが出るからにはそれなりの新展開があってのことだろうと、決断の時期が近いことも予感させた。

「会社を良くするためには人材育成が鍵だ。君たちも社内教育がなっとらんとよく言うじゃないか」
「……」
「ところがだな、わが社は社内教育するにもその施設すら持っていない。教育課は何かやらなければならないテーマがあったとき、研修の中身の審議よりまず会場探しに躍起になっとる。それではだめだ。研修の時期がどこの会社も集中するから思うようにとれないのだろう。受けるほうだって、肩が擦れ合うような狭いところに詰めこめられて身に入るわけがない」
樋口は、団交に出るなりいきなり社内教育について語り出した。
「だから、中計で研修センターの建設を揚げた。早くやらないと間に合わんのじゃ」
「しかし、何事も遅すぎるということはないと言うじゃないですか」
坂本も樋口の論理に引き込まれまいと反論を試みる。
「何を言うちょるかね。経営っちゅうのはそんな奇麗事じゃ済まんのじゃよ。見てみろ。みんな年をとって頭が固くなってきておる。そんな耄碌(もうろく)した頭に何を吹き込んでも入るもんか。5年遅れたらもう手遅れだ」
樋口は交渉委員の顔をジーッと見つめた。こうしたときの樋口の迫力は鬼気迫るものがある。交渉委員はその迫力に皆目を逸らせた。
「近いうちに、新しいファイナンスを実行する。そのために減益にしたくない。これは会社の基盤を盤石なものにするためだ」
「またやるんですか。この前したばかりじゃないですか。大丈夫なんですか」
「今やらなきゃいつやる。これが経営だ」
「しかし……」坂本はなおも食い下がろうとしたが、樋口は構わず畳み掛けた。
「人材育成こそが経営の基本じゃ。どんなに優れたシステムも製品も人材がなければいずれ衰退する。研修センターをなんとしても造らねばならん。それにこれからの営業は自動販売機の時代だ。ここに資本を投入してシェアーをとらないと生きていけん。そのためにはファイナンスで資金を調達しなければならんのや。これからバブル崩壊で金融恐慌が来る。今年減益になったら計画が3年遅れる。今やらなければもう出来ない。なんとしても増益を確保したい。社員教育も自動販売機も会社の将来のためなんや。会社が利益をくすねるのと訳が違う。社員教育を充実させ、営業基盤を確立するためなんや。目先の利益のために経営しているわけじゃない。先を見越して経営しとる。賞与も近視眼的発想だけで配分していいのか。これが理解出来ない奴は会社を辞めてもらって結構」樋口は交渉委員を睥睨(へいげい)しながら強い口調で言い放った。

平田はこの交渉を経験して、賞与は単純に業績と連動して支給するべきではないと考えるようになった。今年の収益の源泉はどこにあったのか、会社の将来的経営戦略はいかにあるか、しこうして労働への分配はどうあるべきか、そのうち賃金としての分配はいかほどか、などなど総合的かつ高度な経営判断のもとに配分されるべきものだと考えるようになった。 人件費総額、労働分配率、1人当たり賃金、年収、賞与額、月数、それぞれ一つひとつの数字に意味がある。また、意味のある交渉をして社員にそれを伝えなければ、どんなに高額な金額を提示しても意味がない。
単純な算術計算で配分されるのもいいが、それは余程平穏で安定したときにしか機能しない。そんな時節がどれくらい続くものか。それほど企業の経営環境は平坦なものではなかろう。人と情報の流通速度と技術革新の高度化が飛躍的に進み、経営環境変化のサイクルも振幅も想像をはるかに超えるようになってきている。

賞与交渉はこうして決着したが、交渉が本格化する少し前のことである。
平田が交渉資料の作成に心血を注いでいるとき、森山が新たな課題を持ちこんできた。
「平田さん、今年の下期の評価はどうしましょうか」
「エッ。それも私が考えるんですか」何の心の備えもない平田は戸惑った。
そんなこと俺にわかるわけがないじゃないか。そう思ったが、それを言ったらせっかく尋ねてくれた心が無になる。なぜ俺に尋ねてきたのかを確認しなければ返事ができない。

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