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司令塔

更新 2016.05.24(作成 2009.10.15)

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第5章 苦闘 24. 司令塔

“それも自分の仕事なのか”人事制度全体をどうするかは考えなくてはいけないと思っていたが、目の前の評価を具体的に問われることは想像になかった。人事の業務全体の把握すらできていない状態の中で、人事制度のサイクルも予想さえつかない平田にとって、この突然の問いかけは自分がこれからやらなければならないことのほんの一部にすぎないことであり、課題の多さを如実に物語っていた。平田はこれから途方もない難題が次々と降ってくるだろうと思うと、その全てに応えなくてはならない自分の頼りなさに慄然とさせられた。
「新参者が偉そうにやってきて何ができる。さあ。どうする、どうする」と、まるで喉元に匕首を突きつけ平田の心構えの希薄さを迫っているようだった。
それは、人事部メンバーの心の底流にある「改革派」に対する気分を顕著に見せる象徴的な出来事だった。
今の人事部は、高瀬や平田のような労務交渉や企画業務、教育のような華やかな業務を担当する者と、給与計算や雇用管理事務(各種保険や税金の徴収納付業務)、福利厚生行政など地味だが確実かつ正確に処理する実務の担当者に分かれている。
普通、企画や改変はそれぞれの実務担当者が時代の変遷や会社の実状に応じて自ら企画立案して改革していくのが理想的だが、人事のような大きな仕組みで動いているところはなかなかそうはならない。なぜなら、実務担当者は日常の業務に追われて新しい仕組みなど考える余裕がないからだ。人事は時間制約業務だ。それに制度、仕組みが複雑に絡んで作用し合っているので、一つのことを考えたとしても次の工程が追いつかない。
以前、平田が製造部時代に担当していた製造管理事務が平田の考えやアイデアでほぼ思いどおりに改革できたのは、その業務が平田1人でほぼ完結する事ができたからである。
ところが人事の仕組みは大掛かりだ。例えば評価制度だが、評価は給与や昇進、昇格にも影響する。当然電算処理するからシステム開発も絡む。評価の実施マニュアルや評価者研修も要る。労働組合の賛同も得なければならないだろう。評価の方法や仕組みだけを変えただけでは機能しないのだ。そんな大掛かりなことを実務の傍らにこなそうとすれば大変な努力が必要だ。誰もやりたがらない理由がここにある。
しかし、今の制度は時代遅れだし問題点も多い。職能資格制度も未だ完成していない。わざわざベテランの西山を排斥し平田を持ってこさせた理由は、こうした現状に川岸がしびれを切らしたからである。
部内の人心の反目に拍車をかける理由がもう一つある。それは川岸の上昇志向である。川岸は樋口の前で仕事がしたかった。樋口の前で自分の頑張りをアピールしたかった。制度でも交渉事でも教育でもいい。提案することは自らを演出する絶好の材料なのだ。
そんな川岸のガムシャラな樋口へのへつらいを“猟官運動か”と不快感を露にする者も多かった。堀越なども“もっと落ち着くべきよ”と心置きない側近たちに漏らしていた。
役員レースでスタートラインに並んだライバル同志が、後藤田にその人となりを見出されて志を同じくしたのはつい数年前のことだったのに、樋口体制になってからはその存在がお互いに気障りなものになっていた。川岸と堀越の間に微妙な亀裂が生じ始めたのはこのころからである。
もしかすると「会社を変えたい」という夢も、樋口への自己訴求の最大効果を上げるための発想だったかもしれない。しかし、平田は純粋にその夢を信じている。
勢い何らかの提案を持ってくる企画担当者を重宝することになる。
それは実務担当者に面白いはずがない。自分たちだって日々頑張っているのだ。全てに時間制約がある中で、下部から上がってくるミスだらけの勤怠データをチェックし、電算に掛け何度も突き合わせと照合を繰り返し、各人の給与口座に振り込み、各種保険と税金を徴収し預かり期限に納付する。そんな地味だが根気のいる仕事をミスなく営々とこなしているのだ。にもかかわらず自分たちはほとんど陽が当たることのない縁の下の力持ちだ。次第に部内に改革派と保守派が水面下で形成されていった。それはひいてはアンチ川岸派の気分にもなりがちであるが、その反骨心が直接川岸に向けられることはなく、あくまでも従順を装い日々平穏に過ぎていった。その反動として、その抑圧された不満は時としてサボタージュや無視、非協力といった形で平田らのような弱い者に向けられた。

“それは今までどおり日常のルーチン業務として、それぞれの担当者がこなしていくのじゃないのか” そんな自分の戸惑いをどうなだめたらいいのか、平田はてこずった。
そうした日常業務は順調に流れていくものと思っていた平田は、全精力を川岸の要求に向けようとしていただけにショックは大きかった。
だが、このことは平田にとってある種の覚醒剤になった。
自分の役割を自覚させるいい切っ掛けとなったのだ。
“司令塔になれとはこういうことか。人事企画そのものが日常業務全体を司ることなのか。日常のあらゆる業務に目を凝らして差配しなければならないのだ。一制度に拘るのではなく、各制度間の相互の戦略性や人事業務全体の佇まいを考えることが俺の役割なのだ。人事制度だけを点描的に捉まえてリニューアルすればいいということではないのだ”
平田は驚きと同時に、それまでなんとなくもやもやしていた目の前の霧が晴れる気がした。
何の対応策もない平田には辛い要求であったが、しかしそれはもうすでに周りの連中が、人事システムのリニューアルを平田が担うことを期待している証左でもあった。それによって自分たちの肩の荷が軽くなる。
「今まではどうしていたんですか」平田は現状を森山に尋ねた。

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