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信頼の回復

更新 2016.05.24(作成 2009.09.25)

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第5章 苦闘 22. 信頼の回復

「会社の原資はこれだけですか。査定原資を外に出すくらいの原資はあるでしょう」
話を聞いていた平田はピンときた。
“ハハーッ。これか。計算式の中に隠されていた0.1カ月は”
しかし、その原資は平田が削減してしまっている。仮にあったとしてもこれからどういう展開でそこにたどり着くつもりなのであろう。平田は交渉の成り立ちに不安な思いを抱きながら見守った。
川岸はハッキリ「ない」と明言している。そうすれば坂本はそう対応するべきである。坂本は賢い人間である。それくらいの判断力を備えているはずだ。にも関わらずこれほど怒るということは、それなりに過去の交渉経緯があったに違いない。
平田は、押し問答の交渉の後人事の電算業務を一手に担当する荻野に昨年度の支給経緯を聞いてみた。
荻野の説明によると、個々人の支給額を計算する電算の計算プログラム仕様で、端数を1,000円単位へ切り上げることと、額を支給係数に直す段階で0.05カ月以下のところを0.05カ月へ切り上げるよう要請されたのだそうだ。これは、個々人の実質的な支給金額の切り上げになり、確かに0.1カ月近くにはなるだろう。これはかなり大きい。
「私もいいのかなって思っていたんですが、協定書がそうなっているからと言われれば、私たちはシビリアンコントロールが働きますからそれに従わざるを得ません」
“なるほど。こうやって計算されていくのか”平田は誰がどんな役割を果たして個々人の賃金が確定し口座に振り込まれていくのか、その流れを具体的につかむことができた。荻野に確認して良かったと思った。
しかし、こんなごまかしはまるでどこかの高級官僚の姑息なやり方ではないか。なぜこうなったのかはわからないが、そんなことで会社の持ち出しを増やしたとしても、個々の社員の手取りを1,000円2,000円増やしたとしても、なんの意味もない。そこに会社の意思も心もなく何も社員に伝わらない。表向きはあくまでも速報や会社の広報で伝えるメッセージが全てなのだ。それが会社の心だ。
その内容を、川岸は以前よりもなお明確に伝えていた。
「今年は中計の初年度だ。いきなりつまずくわけにはいかない。何がなんでも達成して次年度につなげたい。ところがバブルが崩壊し、消費者心理の冷え込みで売り上げが思うように伸びない。それでも食品業界は他産業に比べて落ち込みはひどくない。わが社も何とかわずかながら伸びている。しかしこれは新製品の投入効果によるもので今後も続くとはかぎらない。もっともっと我々社員が力を出さなければならないところにきている」川岸は必死だった。
「組合員が頑張っているのはわかる。賞与がもっと欲しいという心情もわからぬではない。しかし、会社も労働への配分をけして惜しんでいるわけではない。業績に見合う配分はしている。人件費総額では過去最高額になる。問題はバブル崩壊で退職者が思ったより発生せず、予定より社員数が多くなったことだ。そのこと自体が悪いと言っているのではないが、そのため1人当たり生産性は落ちている。従って賞与原資総額は史上最高を会社も出しているのだが、1人当たりで前年を割ることになる。そのことを理解してほしい」
なるほど。このことは自分が作った資料から読み取れる。
平田は、“上手い”と思った。
しかし、坂本はまだ原資があると譲らない。

平田は、“これからは自分の出番だ”と思った。団交の合間を見て、
「あのー、原資の話になっていますが委員長に誤解があるように思います。私のほうで説明に行って来たいと思いますがいいですか」
川岸に了解を得た。
「頼む。何か勘違いをしているようだから」
平田は、電話で坂本の了解を取り組合事務所を訪ねた。
「オーッ、ヒーさん」坂本は待ってましたと言わんばかりに闘争委員会のテーブルの中に招き入れた。
「ヒーさんに確認したかったんよ。どうなっとるんかね」
「どうもこうもないよ。原資はこれがいっぱいいっぱいです。去年は事務方のほうで隠し原資をごまかしていたんですよ。だから、支給額計算のところでつまらんまやかしの計算式を組んでいたんです」
「なんでそんなことしたん」
「自分が少しでも多く欲しいということと、結局西山さんの組合に対するええ格好しいでしょう」
「今年もそうやってくれたらいいんじゃないかね」誰かが下卑た言い方を投げかけた。平田はこういう考え方が一番嫌いだ。
「それにどんな意味があるんですか。もし、0.1カ月欲しいんであれば、団交で正々堂々と主張すればいいでしょう。闘争委員のみなさんは、支部に帰って計算のごまかしで少しは多く手取りが増えますって説明するんですか。それで組合員は喜びますかね。みんなごまかしかよってがっかりするんじゃないですかね」ピシャリと返した。
「平田さんはええ格好しないんですか」誰か別の若い交渉委員が皮肉った。
「こんなことではしません。もっと意味あるところで格好をつけます。そうしないと逆に皆さんの信頼を失うでしょう。今度は何をごまかしているかと疑心暗鬼に陥ります。団交の意味と品位を傷つけたくありません」
「なるほど。そのことはわかりました。しかし、純粋に回答額には不満です。会社にはもうひと踏ん張りしてください」さすがに委員長である。ものの道理が通らないとわかると、さっと態度を切り替えた。
「それは今日の結果として部長には伝えますが、私の範疇を超えています。団交でしっかり主張してください。それが皆さんの役目です」
平田は、さっき皮肉るような言い方をした交渉委員を見据えて言い聞かせた。
こうして、原資の信頼は回復した。同時に組合の平田に対する信頼も大いに高まった。その後の経済闘争において坂本は、最終決断のときには内緒で必ず平田に原資確認をするようになった。

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