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底なし沼

更新 2016.05.23(作成 2009.06.25)

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第5章 苦闘 13. 底なし沼

「それで、何をしたらいいんですか」平田は高瀬に尋ねた。
机を接しての隣である。声は十分聞こえる。だが、平田は高瀬の机の脇にわざわざ立って確認した。
「西山さんからしっかり引き継ぎをしてくれ」高瀬のそっけない返事が返ってきた。
平田はがっかりした。
「引き継ぎをすることが私の仕事ですか。そうじゃないやろ。私の役割とか、使命とか担当業務とかあるじゃろ。それがあって引き継ぎがあるんだろ」そう言いたかったが、
「そうですか。それだけですか」と諦めた。
「まあ、今のところそれだけやな」頼りない返事だ。
“組合を降りて2年、団交の雰囲気から遠ざかっている間に随分時代は変わったようだ”平田は放心状態で立ち尽くした。悲しい眼差しで高瀬を見下ろしたが高瀬は下を向いて書類を見たままだった。
川岸は正面の壁を見つめたまま何食わぬ顔で噛み合わぬ2人の話を聞いていた。川岸が部屋の雰囲気を探るときのポーズである。彼は耳をそばだて、微かな話し声や雰囲気で部下の気持ちや考えを敏感に察知する。
今は、平田をどんなポジションでどう使うかを考えているところだった。“唯々諾々と高瀬の川下に下るようでは使い物にならない。自分なりの居場所を主張するようでないと頼りにならない”そう考えていたところに高瀬とのやり取りが耳に入ってきた。
“やっぱり平田を呼んで良かった。意識のありようが違う”そう自分を信じた。
「ヒーさん」川岸は平田を手招きした。
高瀬はこの呼びかけに平田以上に反応し、とっさに川岸のほうを振り向いた。
平田が川岸の側に行くと、
「今日の帰りに一杯行こう。歓迎会や。いろいろ話しておきたいこともある」と、川岸は他の者に遠慮するように小声で誘った。
「はい、わかりました」

平田は仕方なく西山の異動先である営業部を訪れた。
西山は自分の引き継ぎに必死だった。平田には一瞥をくれただけで、
「全ては机の中にあるし、データや資料はフロッピーの中に入っとる。そっくりやるから遠慮せず見てくれ」
「そうじゃなくて、引き継ぎをきちんとやってくださいよ」
「引き継ぐものなんか何もないよ」
「そんなことないでしょう。今まで長いことやってこられたんだし、どんな事をどこまでやって、何が問題でとかあるでしょう」
「何もないよ。全てはあんた次第なんよ。俺がやってきたことなんか何にも参考にならんと思う。だから引き継ぎはしない。やったものはフロッピーに入っている。それだけよ」
「しかし、会社の仕事でしょう」
「そうだけど、何もないのよ。むしろ部長と話したほうがいいと思うよ。俺の考えと違うということだからな」
「そんなことが関係するんですか」
「あんたの仕事はそういう仕事だ。そのうちわかるよ」
平田にはよくわからなかったが、何となくここに大きなポイントがありそうだ。自分の置かれた立場を把握する大事なヒントが隠されているように思われた。
「俺もよくわからん」と高瀬も言っている。
「職能資格制度とかもあるんじゃないんですか。どこまで出来ていて何が問題なのか、きちんと教えてくださいよ」とさらに追求した。
「全部フロッピーに入っている。開けばわかるよ」
西山はとうとう引き継ぎをしてくれなかった。
“こんな引き継ぎもあるのか”と平田は諦めた。
“そういえば、俺が工場に飛ばされたときも引き継ぎはしなかったな。あのときは水沼が真面目に人の話を聞かなかったからや。しかし、今回は俺に何の落ち度もないじゃないか。世間って冷たいもんや”
平田は、出勤初日から本社の人間の底意地の悪さとずる賢さを嫌というほど味あわされた。
平田は自席に戻ってしばらく考えた。
西山は「引き継ぐものなんか何もないよ。全てはあんた次第だ」と言い、高瀬は「俺もよくわからん」と言う。荻野は「人事なんてそんなもんなんですよ。誰もその信念を持ち合わせていないから、人事部全体の考え方の司令塔になれ」と言う。
“もしかしたら、本当に何もないのかもしれない。結局、部長に聞かなきゃわからないか”
それを確認しなければ動きがとれない。平田は腕組みをしたまま、目を閉じて考えた。考えるというよりそれは悩みに近かった。ひょっとして、自分の仕事振りや働き具合によっては、1300人の社員全てに何らかの影響を及ぼすのかもしれない。うかつに動けない。人事とはそういうところだ。
“『むしろ部長と話したほうがいいと思うよ。俺の考えと違うということだからな』という西山は、彼の考えが川岸の考えと違っていたからではないのか”
そう考えるとなんとなく理解できる。
“しかし、俺にはどんな考えもないぜ”
平田は底なし沼に引き込まれるようで身が竦(すく)んだ。

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