更新 2009.06.15(作成 2009.06.15)
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第5章 苦闘 12. 仕付け糸
平田は、組合事務所からの帰りに後藤田のところにも顔を出した。
ハローマートは、本社の移転とともにすぐ近くの貸しビルに本社機構だけ移転していた。
後藤田は平田の転勤を既に知っていて、
「やー。元気ですか。また、みんな集まってきたね。君はいずれ本社に来ることになるだろうと思っていたよ」と、嬉しそうに喜んでくれた。
「そうですか」平田はそう返事しながら、今回の人事に後藤田が何らかの働きかけを川岸にしたのかなと微かに訝った。不躾に確かめようはないが、人の結びつきというものは思わぬところで支えてくれたり、手を差し伸ばしてくれたりするものであることをここ何年かの出来事で平田は学んでいた。
後藤田はそんな気配を全く感じさせないで、
「また、みんなでワイワイがやがやとやれるといいね」と、昔を懐かしむように優しく笑いかけた。
「はい。でも会社は大分変わったようです。昔のような自由闊達というわけにはいかないようです」
「うん。変わらなきゃ成長がないからな。だけど変えたくないものもあるし、変えなきゃいけないものもある。それに、人が変われば自ずと会社は変わるものさ。これは仕方がない」
「しかし、そんなに簡単に変わるものですか」
「いや。表向きはそうだけど、根本のところではそうはいかない。文化や社風というものは、先輩から後輩に脈々と受け継がれるようになって初めて本物といえる。ところが今の中国食品にはそれだけの伝統がない。だからそれまで仕付け糸を緩めてはならないんだよ。今はトップが変われば風見鶏のようになる」
「なるほどですね。仕付け糸ですか」
平田は、子育ては盆栽を育てるようなものだと思ったことがある。
“愛情という水や栄養を注ぎ、悪い芽は早めに摘み、いい枝は添え木をしたり姿形を整えて大きく育てる”そんな気の長い丹精がいい子を育てる。会社の人材育成も同じと後藤田は言っているのだ。
「仕付け糸は例えばどんなことになりますか」
「そうだな。例えばトップの哲学とか経営思想を同じくする人が何代か受け継いで、社内に伝統として根付いて社員同士が切磋琢磨し合うのが一番だろうか。しかし、サラリーマン社長が普通になった現代においてはそれは望むべくもない。回り道だが、社是とか社訓という形で常に意識する仕組みにしても効果はあるだろう。また、例えば評価制度とかにこんなことをしなさいとか、したらいけませんとかを織り込むのも一計だ。そうすれば人はそっちのほうに向いていく。そういう躾を社風として根付くまで続けることだろうな。君の仕事だ。しかし、制度は時代と共に見直される宿命にあるから、仕付け糸にするにはよほど根気強く続けなければいけない」
「なるほど。そういうことなんですか」平田は腑に落ちた。
そこに、女性社員がコーヒーを運んできた。平田も顔見知りだ。にこやかに平田の本社復帰を喜んでくれているようだった。
平田は社長室でこうして会えるのは嬉しかった。社長に近寄れないようでは寂しい。話をしてもらえるだけで自分を信頼してもらっていることが感じられて嬉しかった。
「まあ、体に気をつけて頑張ってください。あなたたちとこうして話し合える機会もそう長くないだろうから」後藤田は思いもよらぬこと言った。
「エーッ、どういうことですか」平田も聞き逃せなかった。
「うん。まあ、気の回し過ぎかもしれんが私も今年限りだろうからね」
「どうしてですか。そんな寂しいこと言わないでください」
「いやいや。いつまでも居れないよ。私も62だ。ここに来てもう4年になる。いつまでも居座っていたんじゃ後の人事がやりにくいだろう。ポストを空けてやることも要るんだよ」
「それはもう決まりですか」
「いやまだ決まったわけじゃないけど、そうなるだろう」
「そんなこと仰らないでいつまでも居てくださいよ。私は未だ、社長に教えていただかなきゃならないことがいっぱいあるような気がします」
「うん。大いに悩み迷えばいい。若さの特権だ。そして道に迷ったそのときは、鮎を持って家にいらっしゃい。楽しみにしてるよ」
後藤田はそう言って、「ハッハッハッ」と笑った。
「そんなことお安いことですが……」平田は語尾を濁した。
「私らの年令や立場になると即断即決を求められる。悩んでる余裕など与えられない。厳しいものさ……。そのときのために自らの見識を磨いておかなくてはならない。何事も見聞きし、経験を積むことだな。学問だけでは人間は大きくならない」
「はい」
“なるほど。見識の確かさが信頼の大きさになり、重要なポストを任されることになるのかもしれない”
平田はまた後藤田に教えられ、事務所を後にした。
道すがら「君の仕事だ」と言われたこれからの仕事の大変さを覚悟しながら、片方で後藤田が去った後の寂しさを思った。
平田が一通りのあいさつ回りを済ませて8階の人事部に戻ったときには、もう昼前だった。
平田は、今あいさつしてきた人々の顔を回想した。6年前、工場に出て行ったときと雰囲気は随分違っている。小田社長―浮田常務ラインの悪政が幅を利かせ、会社は赤字、賞与は減額、少しでも逆らうと左遷を食らい、どの顔も希望を失くし媚び諂うことばかりに汲汲としていた。
しかし、今は後藤田の残した4本の核(営業、製造、人事、総務)ができ、その核を中心に何人かの本当に力のある者が志を寄せている。
その核はお互いに競い合うように躍動し、水を得た魚のように活き活きと飛び回っている。樋口に実力をアピールするパフォーマンスを繰り広げ、ごますり派を少しずつ排斥しようとしているようだ。しかし、まだ少数派だ。というより力のある人材が少ないというべきかもしれない。価値ある者もそこそこにいるのだろうが、大勢の数の中に埋没してなかなか頭をもたげてこない。会社が変わりきれない所以だ。
ごますり派も追い落とされまいと必死に抵抗し、権力者へのお追従を一層あからさまに展開している。平田にはそんな状況が悪あがきのようで馬鹿らしく思われた。どんなに抗っても、もはや時代の潮流は実力次第へと大きくうねっているのだ。
「この流れを止めてはいけない」
そのことだけは、強く胸に刻んだ。