更新 2016.05.23(作成 2009.06.05)
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第5章 苦闘 11. 人の強さ
「部長人事です。平田さんの場合は部長が直接決めた人事で、普通の人事異動と違う。そのことを彼らは人事部にいるだけによく知っているんですよ。部長の肝煎りだということを。自分たちの存在感が薄れていくのを恐れてのことでしょう。気にすることないですよ。いずれにせよ平田さんがリードするようになりますから。大丈夫ですよ。彼らじゃ平田さんに適わんでしょう」と小声で話し、荻野は笑った。
「エーッ。そんなことであんな態度するのか。俺は彼らの領域を侵す気もないし、わかりもしないよ。なんかつまらんな」
平田はそういうこともあるのかと力が抜けた。
「気にしなくていいですよ。いずれ平田さんを頼りにしなくちゃいけんようになりますから。大丈夫ですよ。まあ、そのうちわかりますよ」
荻野はしきりに大丈夫を連発した。
人間の強さってなんだろう。誰でも、自分の周りに「あいつは強い」とか、「あいつには適わん」という人間がいる。何か自分にない秀でたものを持っている。知識であったり、頭の回転の早さであったり、度胸であったり、人望であったり。しかし、本当の人間の強さというものはどれだけものを考えているかではないだろうか。利己のためでなく、仕事のことであったり、会社のことであったり、社員のことであったり。あるいはいろいろな催しや慶弔事であったり。そうしたさまざまなことに対し、あるべき姿や執るべき方法について自分なりの確たる見解を持っていることではないだろうか。
我々普通の人間が人に認められ、いい仕事を残していくためにはひたすら考え、思うことである。そして、何が何でもやり遂げるという強い意志を持つことである。一つの困難があればそのことをひたすら考え抜き、思い続けておれば必ず道は開ける。そのとき、人より考えた分だけ仕事に深みと広がりと自信が備わり、揺らぎがない。全てのことに対して、オールマイティである必要はない。自分の得意とする分野だけでもいい。誰もが一目置くくらいの専門分野があれば、それはそれで通用する。
「こういう場合はこうだ。○○とは何だ。○○はどうあるべきだ」というふうにいろんなことをしっかり考え、それを自分の持論としてしっかり持っておくことが人の強さである。それを哲学にまで高められればもっといい。そのためには勉強も必要かもしれない。しかし、ただの物知りでは何にもならない。知識は考える材料にすぎない。知識を元に考え、導き出した不動の信念が力なのである。まさに、樋口は“会社を建て直す”の一念と、その意思の強さで見事会社をよみがえらせた。
この考える力の差を荻野は言っているのであろう。知識だけではベテラン人事マンに平田は勝てないはずだからである。
「そうか。その辺はまたの機会に詳しく教えてくれ」平田はスッキリしなかったが「まだあいさつが残っとるから、またゆっくり話そう。頼むよ」と後にした。
平田は大事な人から順に回ったが、反応はマチマチだった。平田はその反応が自分に対してのものと、川岸に根ざしているものとが混在しているのを慎重に嗅ぎ分けながら大方のあいさつを済ませた。
自分への反応は、数少ない好意的なものと荻野の言う部長人事に対する“お前は川岸派だな”という烙印の眼差しがあったが、それ自身が川岸に対する感情的シコリから出ている臭いが感じられてならなかった。もちろんそれが何かわからなかったが、本社特有の陰湿な精神の屈折が絡んでいるような気がした。
野木や河原は「頑張れよ」と喜んでくれ、河原は、「時間が空いたら飲みに行こう」と言ってくれた。
しかし、野木の顔がスッキリ晴れていなかったのが少し気になった。何か人には知られたくない心配事でもあるかのような風情だった。
平田は、社内のあいさつ回りを一通り済ませると組合事務所に顔を出した。
組合も、会社が移転すると同時に市内に移転し、会社から300mほど離れたところに小さな空き事務所を借りていた。政治家の選挙事務所程度の広さでトイレやちょっとした炊事場もあり、手ごろな物件である。といっても借りているのは会社で、組合は使用料の名目で会社にわずかな賃料を月々納めているだけである。そうしないとこの程度の組合が独自で市内に事務所を構えるのは負担が重過ぎる。
「もう少し会社に近いほうが便利じゃないの」平田は聞いてみた。
「いや、これくらいがちょうどいいんです。歩く間に考えをまとめられるし、何かあってもクールダウンするのにちょうどいい距離なんです」
なるほど、坂本らしい考えだ。
新委員長の坂本は就任してもう2年になる。大会前で忙しそうだった。平田らと一緒に執行委員をやっていたこともあり、委員長姿がすっかり板についていた。
「平田さんお願いします。西山さんじゃ頼りにならんのですよ。組合OBが人事部に行って馴れ合いになるんじゃないかっていう人もいますが、志の問題でいけない理由はありません。モラトリアム期間も2年間空いていますし私は良かったと思っています」坂本からは逆に頼まれた。
「うん。変なところに行くことになったが志は変わらんからな。会社が良くなるため、社員が良くなるために何をしなくちゃいけないか考えるよ」
「はい。よろしくお願いします」
「俺はまだ、全体が見えてないし何をしたらいいかわからないから、委員長のほうも何か気がついたことがあったらなんでも言ってください」
以前の同じ組合の同志的結びつきから、それぞれの組織の一員としての新たな関係が始まった。