更新 2016.05.23(作成 2009.07.03)
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第5章 苦闘 14. 天の試練
平田は西山が残したものを恐る恐る開いてみた。しかし、参考になるものはほとんどなかった。他社事例のコピーだとか賃金改定の相場といったものばかりで、自らの必要性で収集しなければ意味がないし整理がつかないようなものばかりだった。後は職能資格制度に関する研究資料だった。しかも、制度構築の作業内容や賃金に関する計算の仕組みは全てフロッピーの中である。
平田はウンザリした。そもそも仕事がわからないのにその仕事の内容が全てフロッピーの中で機械の扱い方すら知らないのである。
しかも西山が残したフロッピーは、並べると机の端から端まであるくらいの枚数である。どこに何が入っているのか、いちいち確認してみないことには似たようなタイトルを見るだけでは全く承知できなかった。
この時代のパソコンや電算システムは、今のものと比べ物にならないくらい性能は落ちる。今のエクセルはクリック一つで計算式が入るが、このころのランプラン(パソコンが普及し始めた初期の表計算ソフト)は計算式をいちいち組み立てなければ機能しない。読み込むデータにしてもホストマシンと直接繋がっているわけではない。売り上げや製造数などは日々だが、人事関係は月1度、ホストマシンでバッチ処理し、結果を担当者のニーズに応じたスタイルにカスタマイズし、フロッピーにダウンロードして渡すというやり方であった。データベース化というのはもう少し後のサーバーやパソコンの性能が格段に向上してからのことである。
平田は思い切って岡村美子に使い方を教えてくれと頼んでみた。
「私も詳しくは知らないんです」と言いながら一通りの扱い方を教えてくれた。後は自分の習熟次第だ。仕事とパソコンを同時に習得しなければならない。しかも人事部にパソコンは2台しかない。入れ替わり立ち替わり共同で使っている。不慣れな平田が長時間専有するわけにいかなかった。仕方ない平田はみんなが帰った後、1人残ってパソコンのマニュアルと格闘しながら習得していくしかなかった。朝は確かに8時に出社し、始業の9時までパソコンをのぞき、わからないことをメモって後で教えてもらう。そんな苦労の繰り返しが続いた。
そんな平田に仕事は容赦しなかった。次々に業務が降ってきた。人事の仕事とはそんな仕事だ。給与は毎月給与日に支払わなくてはならない。賞与は協定した支給日に支給しなくてはならない。異動は定期異動期に異動させなければならない。間に合いませんでしたでは済まないのだ。人事の仕事は時間との戦いだ。平田に土日や休日はなかった。365日、朝8時から最終バスまで毎日会社に詰めた。そうしなければ不慣れな平田は心配でしょうがない。間に合うだろうか、内容はこれでいいだろうかという不安が、濡れたシャツのように体中に纏わり付いて振り払えなかった。
平田の苦闘はこのように始まった。
本社勤務の初日はこうして暮れた。
6時を過ぎたころ、平田が顔を上げると川岸がアゴでドアのほうを指し合図をした。平田も軽くうなずいて帰り支度をした。
こういうときには便利な位置関係である。チョット集中を解き神経を広げると顔を上げなくても川岸の動きが察せられる。いつも見られているようで落ち着かないが、「気を緩めず頑張れ。俺が見ていてやる」という慈愛の眼差しと捉えるとさして気障りにならない。
川岸は流川の行きつけの小料理屋に連れていってくれた。川岸の飲み屋を選ぶセンスは良かった。贔屓にするのに一定の基準を持っていて、マスターや接客係など社員の躾がしっかりしていること、料金がリーズナブルであること、店が小奇麗で、料理が美味いことなどである。
川岸が顔を見せるとフロアーマスターが「お久しぶりです。ようこそ、いらっしゃいませ」と満面の笑顔で丁寧に案内した。よく利用しているのだろう。親しみのこもった対応である。
こうして川岸と二人きりで飲むなんて初めてである。これまでは組合の三役や後藤田専務らといつも一緒だった。組合三役を離れ部長と部下の立場になり、平田はどんな話になるのか期待と不安と緊張が胸の中で静かに交錯した。
何点かの料理を頼んで突き出しとビールで乾杯した。
「何をしよったんかね。待っとったんやで」川岸は笑いながら待ち望んでいたことを打ち明けた。
「自信がなかったんです。どう考えても大変じゃないですか。気力、体力、知力。どれをとっても私には難しいと思いました」
「それじゃ今は見通しが立ったと思うていいんじゃな」
「いえ、そうじゃありませんがやってみるしかないと思っただけです。もし、一生懸命やってできなかったらそれは任命責任だと」そう言いながら平田は川岸の顔をのぞいた。
「いいよ。初めからそのつもりだ……。いいか、貧乏くじかもしれんが試練は力のある者にしか与えられない。力のない者は誰も期待しないから試練も与えられないのだ。俺もお前も人事なんて初めてだが、天が試練を与えたもうたんや。応えるしかなかろう」
川岸の言い方には不動の決意が満ちていた。
「試練ですか」
「そうだ。会社のため、社員のため、何かを成そうとすることは、組合でやるのも人事でやるのも同じだ。天はお前を選んだのだ」
「しかし、私は人事なんかわかりません」
話を進めるうちに平田は、団交で論戦したわだかまりなど川岸に全くないことを確信し、飲む前の緊張も忘れていつしか心を開いて話し合えていた。