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激怒

更新 2016.05.19(作成 2008.06.05)

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第4章 道程 4. 激怒

会社はいきなり新賃金制度への移行を打ち出してきた。
新しい人事制度を導入する目的は、端的に言えば現状の打破である。人の意識面からイノベーションを引き起こすことにある。そのためには、新たな制度の理念や考え方を明確に打ち出し、「こういう方向で頑張ろうよ」と社員を動機付けすることが肝要である。
その上で、制度の趣旨に基づいた評価制度と処遇(賃金)制度を整え、その方向に頑張った人を評価し、処遇していく。この連携が制度の効能に弾みをつける。
例えば、職能制度ならば、
「会社が必要とする能力の高い人を尊重します。皆さん能力を磨いてください。職能要件書で評価し、能力のある人は高い資格と賃金が与えられます」と、三位一体で社員の動機付けを図り、改革を加速する。それが一般的な制度導入の狙いだ。
今、中国食品の人事制度は確かに考え方や理念の議論は一応済んでいる。賃金表の設計も終わっている。後は職能要件書のまとめと評価制度の設計である。こう考えると作業は順調に進んでいるかに見える。ところが本当に大変なのはこれからなのである。
どんな制度にせよ、人事制度構築に携わったことがある人ならばわかるであろうが、机上で作るのは簡単だが肝心なのは落し所なのである。
しかし、この時点で人事部スタッフも人事制度研究会のメンバーもそれを見通すことができなかった。
それに、作業は進んでいるがそれは研究会レベルのことであり、会社にも組合にも途中経過の報告書が上げられただけで、社内的にオーソライズされたものは何もなかった。
当然、賃金移行に対し賛否両論組合内部は分かれた。
反対派の言い分はこうだ。
「もし、基準書ができなかったらどうする。格差ばかりが拡大し、後戻りできないではないか。いきなり打ち出しては組合員が混乱する。それに人事部スタッフの面子のためという臭いが強すぎる」
確かに、常識的に言い分としては正しい。しかし、賛成派の意見ももっともだ。
「どっちにせよ今より悪くはなるまい。高齢者だけがいわれもなく幾何級数的に上がっていく現行制度より、少なくとも賃金をコントロールできるようになる。それに、どっちにしても評価は評価やろ」
平田は、こういうとき自分の意見が大勢を決すると自覚していた。また、みんなも賃金部長としての平田の見識に一目置いていた。それだけに慎重に考えた。結論として、平田の考えは条件付賛成だ。
「組合も現行制度の不合理をあげつらってきた。ならば早くに新制度を導入しなければ組合の主張そのものに信憑性をなくし、現行制度容認になってしまう。格差だけが拡大というが査定昇給を小さくして導入すればいい。組合員に対してもちゃんと説明がつく。今の運営上の不合理な年齢間昇給格差のほうがはるかに問題だ。混乱するというが、自分にとって一番大事なことだから関心は高い。きちんと説明すればきっとわかる。それが我々の仕事ではないか」
しかし、まだ課題は残る。移行の仕方とタイミングだ。ここでも意見が分かれた。
移行は、現行賃金をベースにスライド方式で行うとの会社提案だ。賃金講座ではないので詳細は省くが、簡単にその仕組みを説明しておく。

イメージ図

仮に、現行賃金330,000円の35才A君がいたとする。
35才の年令給表をみると150,000であるから、A君の年令給は150,000円となる。これは全員同様である。残りの180,000円が職能給ということになる。職能給は資格給と習熟給で構成されており、180,000円に見合う職能給のところに移行する。
ここで問題となるのが、賃金表などというものは50円とか100円単位のピッチで刻まれており、ほとんどの者が自分の職能給部分にピッタリ見合う職能給がないのが普通である。その場合は、本人の給与を下げるわけにいかないから上の号俸に格付けされる。それはわずかではあるが即ち昇給を意味し、原資を伴う。それが移行昇給であり、移行原資が必要となる所以である。

イメージ図

会社はこれを覚悟しなければならないが、昇給時期であれば昇給原資に紛れ込ませ持ち出しを少なくすることも可能だ。
一方組合は賃金交渉とは分離し、昇給は昇給、移行は移行と別出しにしたほうが実質的昇給につなげることができる。当然春闘とは分離して考えようとする。交渉テクニックと言えばテクニックかもしれないが、姑息な考えだろう。
必然的に交渉でもそのことが俎上に上がる。
組合はそのことを材料にする。
「もともと無理な導入を呑もうと言っているのだから、会社も組合の苦しい立場を酌んで別出しで考えてくれてもいいではないか。それに社長も新しく来られたんだし、ご祝儀相場のようなものがあってもいいんではないか」
「何を言っている。名目はどうであれ、人件費としての拠出に変わりはない。会社はこれをベースに企業運営をしなくてはならないのだ」
会社の言い分だ。
もはや、議論の優劣や善悪ではない。覚悟のみである。
組合内部も分かれた。
制度導入という大事をとり、枝葉末節を捨てるか。あくまでも正論を推し進め、数百円の昇給にこだわり実利をとるか。ここでも平田は、自分の意見がどっちに振れるかみんなが期待していることを知っていた。しかし、平田はすでに決めていた。
「これだけ現行賃金の矛盾を白日のもとに晒しておいて、放置することは許されない。一刻も早く対処すべきだ。会社も自らを背水の陣に追い込んでいる。もはや後戻りできない。その覚悟があれば制度は進むであろう。100円200円の昇給などどちらでもいいではないか。もし制度導入がなければ、もともとなかったものだ」それが平田の考えだった。
一方会社では、この議論を聞いた樋口が烈火のごとく怒った。交渉過程で苦し紛れに発言した組合の一言が樋口の逆鱗に触れたのだ。
「何をバカな話をしとるんじゃ。組合の会社建て直しへの取り組みはポーズだけか。俺は組合も真摯に考えていると信じてマル水からやってきておる。移行原資だのご祝儀相場などと何を的外れなことを言っているのだ。俺をここまで引っ張り出しておきながら、コケにするのか」バーンと机を叩いた。阿修羅のごとき形相で頭から湯気が立ち立ち上った。樋口は、組合が役員人事に少なからず手を染めたことに多少の含みを持っているようだ。
「会社を建て直す気構えはないのか。本気でそう思うなら100円そこらの昇給などどうでもいいはずだ。どうやって会社を建て直すかに心血を注いでいるときに、そんな甘ったれた交渉なら止めてしまえ。そんな従業員には一銭も出さない。交渉をやり直してこい」と言い放ち、書類を川岸の胸に投げ返した。川岸は肝っ玉が縮み上がった。資料が足元に散らばったが一歩も動けなかった。顔は強張り膝頭が微かに震えた。

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