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花を添える

更新 2008.06.13(作成 2008.06.13)

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第4章 道程 5. 花を添える

樋口はあちこちで咆哮した。的外れなことをやっていたり真剣に考えていなかったりしたら、必ず一喝した。それによって社内のどんよりと澱んでいた空気も緊張感とともに次第に生気がよみがえってきた。それは、暗闇に夜明けの陽光が差し込むごとくだった。
社長に就任してほんのわずかだが、樋口は既に社内を掌握した。自信に満ちたトップとしての姿勢に、まず心ある者たちが呼応し希望を持ち始めた。その目に輝きがよみがえってきたのが平田には手に取るように感じられた。わずか2、3カ月前とは大違いだ。今まで、小田や浮田に擦り寄ることで自己保身をしていた連中が幅をきかせていたが、今はその連中に代わり真に会社を憂える真面目な社員の意見が尊重されるようになってきた。もともとそういう連中は実力もなくゴマすりで生き延びてきていたから、難局を乗り切るための本当の力を求められるときには通用しない。
少しずつだが確実に中国食品は生まれ変わろうとしている。
樋口が社長に就任して初めての社内報が発行された。トップ記事は社長の就任演説だ。そこで樋口が説いたものは、『雲外蒼天』だった。
「今我々は暗い雲の下にいる。しかし、その上には蒼く澄み渡った限りなく広い空がある。夢も希望もそこにはあるのだ。そこにたどり着くにはあの雲を突き破って力強く羽ばたかなくてはならない。雲の中には幾多の難関が待っているだろう。しかし挫けちゃだめだ。力を合わせ雲を突き破るのだ。大丈夫、自信を持って果敢に立ち向かおう」趣旨はざっとこんなものだった。
例えはわかりやすく簡単なものだが、社員に希望を持たせるものだった。
なんと言っても、トップ自らが現状を打破しようとする心意気が社員にも伝わった。

組合は平田のジャッジで、会社は樋口の現状打開への強い意志で職能資格賃金制度の移行導入が決した。
賃金表と運用ルールが公になり、それによって定昇の仕組みと額が明確になった。査定昇給は号俸の進み具合で調整するのであるが、要件書と評価制度が出来上がるまでは最低限の昇号で運用することが決まった。また、評価も要件書に照らした実証がなされないまま昇格するのはある意味危険であるとの判断で昇格も凍結された。
これらが平田の条件だった。

春闘が終わり4月もそろそろ終わろうかという4月26日の土曜日、平田は山菜採りに山に入った。桜もすっかり葉桜となり山々に新緑が目立ち始めるこのころ、平田は毎年山に入る。たらの芽やウドの芽、ワラビ、フキなど平田はどれも大好きである。少し前の雪解けごろはフキノトウ。そしてつくしに移って山菜になる。中国山地にはこれらが採れるいい山が連なっている。天狗石山、冠山、雲月山、臥竜山、深入山など、どこも山深く空気は澄み水清しである。そしてこれら山々の間にはきれいな渓谷が流れ、ヤマメやニジマスなどの好ポイントが点在している。自然大好きの平田には絶好のロケーションだ。
晩春から初夏の山は実に気持ちがいい。頂上から見る山並みは緑の濃淡が鮮やかに広がる。杉や松のような針葉樹は濃い緑、ブナなどは新芽を出し薄い黄緑、そしてやや茶色がかって紅葉しているのは竹林だろう。野にはレンゲや菜の花がピンクや黄色に広がり、まるで貼り絵模様のようだ。
俗世の喧騒な雑音は一切聞こえない。あるのはサラサラと風に揺れるやさしい葉音だけである。そんな中に鶯やカッコウが間近にさえずり、仲間になったような気分にしてくれる。そんな景色を見ながらの握り飯がまた格別だ。
この日は組合執行部メンバーで後藤田の送別会を行う日である。「ぜひうちでやらせてくれ」という豊岡の強い要望で、‘新川’ですることになった。豊岡の後藤田に何かしてやりたいという思いの表れであろう。みんなもその気持ちが嬉しかった。
「誰かのために、何かをしてあげたい」それが男気であり、人間の大きさだ。そんな人のもとに人は集まってくる。
豊岡が、家族に“最高のもてなしを格安で”と無理を頼んだことは、料理と清算された値段を見れば一目瞭然だった。
平田も、豊岡のところなら山菜を持ち込めばさばいてくれるだろうと思って朝早くから山に入ったのだ。少しでも花を添えたかったからだ。案の定、豪華な懐石料理の脇に何気なく添えられた素朴な山菜料理が話題を広げた。
「ヘーッ、平田君が採りに行ったの」と後藤田は目を細めて殊更珍しがってくれた。
この席には川岸も参加した。川岸も後藤田からいろいろと薫陶を受けており、一方ならぬ恩義があった。誰かに聞いて参加してきたのだろう。
吉田があいさつし、川岸が乾杯し、後藤田も答辞の真似ごとのようなことをしたが、誰もそんな形式ばったことに関心はなかった。ざっくばらんがよく似合うメンバーである。
早速豊岡が始めた。
「そんなことより、新社長になられてどうですか」と不躾に尋ねた。
「うん。感覚を掴むのに少しとまどったかな」後藤田はニコニコと屈託のない笑顔を豊岡に返しながら、久しぶりの豊岡らしさが嬉しそうだった。
「どういうことですか」
「うん、例えば10万円の投資予算があるとしようか。中国食品ではリスク、リターンを考えてまあこの程度ならで片付けられるが、ハローコープではそうはいかない。ハローコープの10万円は中国食品の500万円に相当する規模だ。その感覚のズレを修正するのに苦労したかな。社員もそうだ。キャパシティが小さいから1人辞めると大変なんだよ。カバーする人がいない」
ハローコープは、中国食品が運営する100%子会社の1つで、ワゴン車を改造していろいろな食材を載せ、あちこちの団地を回って買い物に行けない忙しい主婦を相手に食材を届けるサービスの会社である。
「でも、もう大丈夫なんですね」
「うん。もう大体要領を掴んできた。どこを押せばどこが出て、どこを引けばどこが凹むかわかってきたよ」
「さすがですね。やっぱりわれらの後藤田専務や」豊岡はどこまでも調子が良かった。
「もう、社長と呼ばないと」横から作田がたしなめた。
「いやいや、公でなかったら呼びたいほうで呼べばいいよ。私であることに変わりはない」
「ところで、やっぱり専務も交代せざるを得なかったんですか。残るわけにはいかなかったんですか」
「それは無理だよ。道理が通らない」
「しかし、専務は何も悪くないじゃないですか。なんか悔しいです」横から平田も残念がった。
「なんだか嬉しいことを言ってくれるね」後藤田はニコニコしながら平田の顔をのぞき込んだ。
「実は、金丸社長からは残って樋口さんを助けてやってくれって頼まれたんですよ」
「そうですよ。残ってくれたら良かったんですよ」
「いやいや、それはできないよ。みんなよーく考えてごらん」後藤田はそう言ってみんなの顔を見渡した。

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