更新 2016.05.19(作成 2008.05.23)
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第4章 道程 3. 去就
「そこまで心配していただきまして、ありがとうございます。しかし、わが社の社員は大丈夫ですよ。社長もお会いになったあの吉田君らがしっかりリードしていくでしょう。それに樋口さんには補佐役なんて必要ないように思います。ご自分で見つけられるでしょう。私のような古株はかえって邪魔というものです」
後藤田はその言い方の中に、樋口が金銀の補佐役なんかを欲しがるのではなく、手駒としての飛車角を欲しがる、そういう人物であろうという考えを遠回しに言ったつもりだった。
「うん、そうですか。しかし、それがかえって独善や暴走にならないかと心配なんですよ」金丸もその辺は呑み込んでいるようだった。
「それに私はあなたが惜しい。中国食品のためにもう少しいてもらいたいと思っています」
「いやそれはダメです。私だけが残っては単なる内紛になってしまいます。それでは私の信条が許しません」
「そういうあなたの人柄が今の中国食品に貴重なんです。なんとかお願いできませんか」
大きな政権交代の後だけに、社員に占領政策の印象を色濃く与えかねない。金丸は、そうした社員の心情を慮っていたのだ。
「私は昨年社長にお願いに来たときから決めておりました。一度も揺るぎませんでした。社長がそうお考えになったのはいつですか」
「樋口を出したときからかな」
「たった1月じゃないですか。私は4カ月考えてきました。それを1月で覆すというのはちょっと卑怯です」
「ウーン、そうですか」と大きくため息をついてしばらく考えた。
「わかりました。しかし、私もあなたを小田と同じ扱いにするわけにはいきません。全く姿が見えなくなるというのは小田と同じ扱いになってしまいますから、それじゃ困るんです。処遇については私に任せてもらえますか」
この一言に後藤田は目頭が熱くなった。
「そこまでご配慮いただいて、本当にありがとうございます」後藤田は深々と頭を下げた。しかし、後藤田の退任は決まった。
春闘も佳境に入った3月15日、中国食品の第23回株主総会が開かれた。業績の説明と決算報告がなされたあと、小田、後藤田の退任と樋口の社長就任が承認された。小田は非常勤の相談役として形ばかりの肩書きが残った。
これはどこの会社でもやっていることであるが、次のような裏事情からである。
日本の税制では所得税は当年度の所得に対し当年度の徴収が原則であるが、住民税は前年度の所得に対し翌年度の6月から徴収されるようになっている。そのため役員のような高額所得者が会社を辞めると、収入がなくなっても前年度分の住民税だけが高額のまま大きな負担となって残る。これはきつい。ほとんどの人がそれを嫌い、ポスト移譲の妨げにもなっている。そこでその負担を軽減する意味合いで名目の肩書きだけ残し、小遣いや住民税程度の肩書き料を1、2年間支払うようにしている。もちろんよほどの背任や悪行があれば別であろう。小田のそれもそうしたせめてもの配慮からである。
一方、後藤田は中国食品の関係会社社長に就任した。これは翌日続けて開かれた関係会社の株主総会、並びに取締役会で決議された。とはいえ中国食品の100%子会社であるからなんら支障はなかった。
平田はこの決定に喜び半分、無念が半分だった。最大の奸悪である浮田が、なんのお咎めもなく残ったからである。そのことが悔しくてならなかった。しかし、それは致し方ないところである。吉田らの取り組みは私憤ではなく、あくまでも会社正常化へのアプローチだからである。そのためトップ2人が咎を負って退任する形で決着したのである。
一方で、どんな形にせよ後藤田は残った。自分たちのために、いや会社のために自らの進退を掛けてくれた大恩人が、小田らが招いた失政のトバッチリを受けて同じように退任させられるなんて理不尽以外のなにものでもない。しかし、この処遇はそれを否定した。後藤田の無実を証明した裁断だ。それは素直に嬉しかった。
“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある”それを拾った金丸の英断である。
喜んだのは、吉田らも同じだった。
「平田さん、専務の退任と社長就任のお祝いをしましょう」
「ええ、やりましょう。春闘が終わったらすぐやりましょう」
「俺に任せんさい。新川で盛大にやってあげるよね」豊岡が胸を張った。
こうして中国食品は専務不在のまま、3常務制の新しい体制が整い企業再生への道程を歩み始めた。しかし、多くの課題を抱え多難の船出であることに変わりない。樋口はどのような手腕を発揮し業績を建て直すのであろうか。冷め切った社員のマインドをどのようにして高めていくのであろうか。そして、このような状態に陥れた残りの役員たちの扱いは?平田は樋口の才覚と手腕にワクワクと胸躍る思いがした。
普通トップが代わったりすると冷めた連中が「お手並み拝見」とばかり冷ややかに距離を取ったりするものであるが、マル水ナンバーツーという大物を戴いた中国食品ではそんな横柄に構える者はいなかった。しかし、それまでのぬるま湯にトップリと浸かっていた雰囲気が一朝一夕に変わるものではない。仕事に対する考え方、やり方、姿勢はいつものとおり続いた。
春闘は厳しい攻防が続く中で会社は無謀な提案をしてきた。人事制度は職能資格制度という方向性ができ要件書と評価制度を作る作業に入っていたが、まだまだ完成までは遠かった。そんな段階であるにもかかわらず、ここで賃金だけ一足先に職能資格賃金制度に移行したいというのである。理由はこうだ。
「組合がかねてより指摘するように、賃金テーブルがないから勤続、年令、評価、どれを取っても全ての昇給に合理性がなく、定昇すらない。それよりも形のあるテーブルに乗り移ったほうが今よりは合理性が計れる」というのがその理由である。そうしなければ組合の追及に耐えられなかった。
「評価制度も要件書もできていないのにどうやって格付けするんですか。評価制度がないのに昇給だけ格差がつくんですか」
「どの道評価は今のままだから同じではないか。評価や職能要件書は来年までには必ず作る。少なくとも今より昇給に合理性はある」
「格付けはどうするんですか」
「格付けは現行賃金をベースにスライド方式で行う。要件書がないから能力の洗い替えはできない」
かなり無謀な提案である。組合の内部も慎重派と積極派の真二つに分かれた。
移行するにせよ、今春闘が終わったあとにするのか、前にするのかで大きく変わる。移行原資は昇給に含めるのか、別出しなのか。
会社は、悩ましい新たな争点を持ち出してきた。