更新 2016.05.19(作成 2008.05.15)
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第4章 道程 2. 器
樋口は突然の宣告にとっさの反応ができなかった。口で何かモゴモゴと言いかけていると、金丸が言い訳とも説明ともつかない言い方で説得してきた。
「私はね、君を追い出すわけじゃないんだよ。むしろその逆だ。君は大変な実力者だ。いつまでもナンバーツーでくすぶっている器じゃないだろう。独り立ちして思う存分実力を発揮したらいい。そのほうが会社や世の中にとってよほどためになると思っているんだよ」
あまりに突然のことで心の準備ができておらず、動揺を隠し切れない。
「私はまだ任期も残っていますし、マル水でやりたいこともたくさん残っています」ここまで言うのがやっとだった。
「わかっている。6月の総会までは兼任だ。あとのことは次の者がやるよ」
「会長がなんと仰るか」
「会長の了解は取ってある。それに私も君もそろそろ交代の時期だ。次の人に任せようではないか」
樋口にとって、もはや取り付く島はなかった。金丸の信念の強さを思わせる凛とした言葉の響きに、まるで金縛りにでもあったような自分が情けなかった。悔しいが受け入れざるを得なかった。
金丸と自分はこれほど力の差があるのかと思い知らされた。年の差とか経験とか地位とかわずかな差だと思っていたが、先輩役員や株主たちからの信任や結びつきの強さは遥かに敵わないものがあることを知った。やはりトップの強さだ。ビクともしない金丸の自信に樋口は観念した。
先輩後輩でしのぎを削っているときはそれほど感じなかった実力差が、全てに責任を負うトップと何かと気が楽なナンバーツーという役割が明確になったそのわずかな時間に、人間の器に目に見えぬ大きな水を開けられていた。ポストが人を育てたのだ。人間の大きさは、いかに多くの信頼を得ているかということかもしれない。それは大きな財産であり揺るぎない自信になる。
金丸はかねてより樋口の処遇に頭を悩ませていた。今の体勢ができてそろそろ8年になる。次期総会では政権を次の世代へバトンタッチしなければならない。おそらく自分は会長に退くであろうが、そのとき以下の役員をどうするかである。マル水食品の役員交代はチーム制だ。次の社長は必ず現社長より7、8才若い者が選ばれる。間を飛ばされた役員は全員引退か関係会社に転出、または全く影響力のない顧問程度に納まるのが慣わしである。そのとき、樋口のような大物役員は簡単に片付けられない。そのため、頭を悩ましていたのだ。実力があるだけに煩わしかった。中国食品の業績悪化はどこかいい輩出先がないかと考えていた矢先の渡りに船だった。どこかいい輩出先がないかと考えていた矢先の渡りに船だった。2部上場会社の社長ポスト、絶好のポジションだ。
最初に吉田と面談するときから金丸は樋口を帯同したが、その本当の狙いがここにあった。本来ならば小田以下の主だった役付き役員を呼びつけて“どうなんだ”と一喝すれば済むような話を、わざわざ念の入った大芝居を打ち、一部始終に樋口を絡ませた意味がここにあったのだ。樋口も首を突っ込んだ手前抜き差しならぬところにはまってしまった。樋口に“はめられたのか”というわずかな無念さがなくもなかったが、会社伝統の役員交代システムを出されては、それを無視することは許されなった。
もちろん、金丸が樋口を出す理由はそれだけではなかった。7年前、小田を社長にしたときこちらからいい人材を出さなかった結果が今日の混乱を招いている、とつい先日自責の念に駆られたばかりだった。そのことを思い出して、出すときにはいい人材を出さなければとの思いを新たにしてのことだった。
こうした経緯を経て、樋口は中国食品へ赴任してきたのだった。
そういえば7年前、小田を社長にするときも自分がマル水代表で任命したことを思い出した。皮肉にも今度は自分がその後釜に座ろうとは夢想だにしないことだった。
しかし、いつまでもウジウジとしているような樋口ではなかった。やるからには“今に見ていろ。きっと見返してやる”と闘志を燃やした。それが樋口であり、まさに金丸の狙いどおりだった。
樋口のために顧問室が用意された。今までの役員会議室が改装され、広さや調度品なども社長室に勝るとも劣らない設えだ。
そのため役員会議室がなくなり、臨時的に役員会は会議室で行われた。いつまでもそういうわけにもいかないから、いずれ小田が解任になった暁には今の社長室が役員会議室に改装されるのであろう、と口さがない連中はもっぱら噂した。そんな動きからも小田が解任されることは規定路線になっていた。
組合三役の連中が気になるのは後藤田の去就と浮田の処遇だった。吉田は後藤田にコンタクトを取るが、
「まあ、なるようになるさ。私が辞めることは確実だけどね」と、本人はサバサバしたものだ。
小田退任、樋口新体制発足。そう読んだ目ざとい連中が早速顧問室に足しげく出入りし始めた。人間のおぞましさに、見るからにゲロを出しそうだ。
組合が中央委員会で春闘の要求を決定した2月8日の翌週、後藤田は金丸に呼び出された。自分の去就のことだろうと容易に察しがつく。覚悟を新たに上京した。ビルの谷間から木枯らしが吹きつける寒い冬の日だった。東京のビル風はやけに冷たい。
「後藤田さん、辞表を預かったままになっておりました。一旦お返しします」金丸はそう言って辞表をテーブルの上に置いた。
もはや辞表の役割はとっくに済んでいた。仮に後藤田を首にするとしても辞表なんぞいらない。目前に迫った株主総会で解任決議をすれば済む話である。後藤田にしても、樋口が赴任してきた以上、今更辞表を携えて云々する意味は全くなかった。
後藤田は金丸が何を考えているのかわからず、「はぁ」と言って金丸の顔を見つめた。居場所のなくなった辞表がテーブルの上で困っていた。
「そこで改めての話なんですが、後藤田さんには今のまま残って樋口を助けてやってくれませんか」金丸は、思ってもみないことを言い出した。
「エッ、何ですって」てっきり解任を言い渡されるものと思っていた後藤田は、不覚にも驚いてしまった。
「うん。今度樋口を行かせることになったがいい補佐役がいない。あなたのような沈着冷静で篤実な人がいてくれると助かると思うのですよ。それに社員の信任も厚い」
「とんでもありません。私なんか浅学非才のなにものでもありません」
「まあ、そう謙遜しなくてもよろしい。最近あなたといろいろとお話しているうちによくわかりました。どうでしょう。助けてやってくれませんか」
「それは樋口さんからの要請でしょうか」
「いや、私の一存だが中国食品の全社員の願いでもある。あなたが辞めると社員が落胆します。いいも悪いも一蓮托生で処分されたと、社員に与える影響を心配しています。それにあなたはまだ若い。引退してくすぶってしまうにはまだ惜しい」
金丸は金丸なりに考えてのことだった。