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仰天

更新 2016.05.19(作成 2008.05.07)

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第4章 道程 1. 仰天

年が明けて昭和61年正月。カレンダーはいい具合に5日が日曜日で効率のよい休みが続き、6日が初出勤となった。
中国食品では、毎年初出勤の日には朝の10時から本社講堂で互礼会が行われる。本社全社員が出席し、組合三役も呼ばれて社長の念頭訓示が行われるのである。会議や交渉と違って一方的に社長がその年の経済環境や経営方針などを訓示する。そのため話の内容や出来栄えがやけに際立つ。社長が小田に代わってからというもの、ほとんど印象に残らないくらい内容の乏しいものになっている。原稿そのものは企画室が草稿するからそれほど内容に変化はないはずなのだが、聞くほうにその気がないと内容まで乏しく聞こえるから仕方がない。
もともと、日本人は権威に弱い民族だ。同じことを言っても誰が言ったかで価値が変わる。封建制度が長く続いたせいだろうか。どこかの偉い先生が言うとなんの疑いもなくありがたく信じてしまうが、普通の人が言うと“そんなことないよ”“本当かな”“しかしね”と否定から入るクセがある。誰が言おうと自らの定見に照らし、信念に基づいて判断していきたいものである。
その上、今日の小田はまるきり覇気がなかった。年末、金丸社長に呼び出され退任を言い渡されていたからである。
「これ以上晩節を汚すこともなかろう」その一言で小田は観念し、しおしおと退散したのだった。もはや社員に訓示するにも資格すらない自分を知っていた。
出席者の大半が表面上は生真面目な顔をしているが、その目はうんざりしているのが手に取るように感じられる。
ところがそれとは別に今年の互礼会はチョット違う雰囲気が漂っていた。
10時きっかりに社長を先頭に全役員が入ってきたのであるが、その中にマル水食品筆頭専務の樋口祐輔がいたからである。出席者の後ろのほうに固まっていた組合三役も不思議に思ってお互い顔を見合わせた。
社長の訓示が始まったが誰の耳にも響いてはいない。早く樋口のことに触れてほしいと気が急いて全ての視線が樋口に向けられていた。
最後に小田が樋口の紹介に入った。
「この度、マル水食品から樋口専務を新しく経営の一員としてお迎えすることになりました。ご存知のようにわが社は今大変な経営状況にあります。そこで、樋口専務を常勤の顧問としてお迎えしこれを建て直すこととなりました。どうぞよろしくお願いします」
「樋口です」と、樋口は鷹揚に名前だけ名乗って軽く会釈した。
会場がわずかにざわついた。三役も顔を見合わせながら目をパチクリさせている。
互礼会が終わると他の三役は事務所に戻ったが、作田はその足で人事部に出向き説明を受けた。
「3月の株主総会で社長含みの顧問だ」と人事部長の川岸は説明した。
「それで小田社長はどうなるんですか」
「それはわからん。会長か相談役か、それとも何もないか」
「ほかの役員はどうですか」
「それもわからん。これから樋口顧問がマル水食品と相談して決められるんじゃないかな。正式に決まったら事務折衝を開くよ」
「なるほど。しかしえらい急だったんですね。事前に組合に教えてもらうわけにはいかんかったんですか」
「ばかなことを言いなさんな。会社のトップ人事だよ。俺たちもさっき聞いたばかりだよ。それに聞いたところでどうなるよ」
「別にどうするわけでもありませんが、会社の一大事じゃないですか。組合にも覚悟とか、心構えとかあるやないですか」
「そんなものは常に持っておくものだよ。なにかあって‘さあ、今から’ってものじゃないだろ」
「まあ、そうですね。ありがとうございました」作田はすんなりと引き下がった。
報告を聞いた吉田らは、複雑だった。
まさか樋口本人が就任するとは夢にも思わなかったからだ。優秀な人が来てほしいという願望はあったが、まさかナンバーツーの筆頭専務が来るなんて仰天以外のなにものでもない。
「これから全ての面で厳しくなるやろね」吉田が神妙な顔付きでこぼした。
「どういうことですか」誰となく尋ねた。
「そりゃ、これだけの経営者ですよ。今までのように甘っちょろい考えは通らんですよ。何一つやるにしても厳しいものが求められると思いますよ。交渉も厳しくなるやろね」
「そらしょうがないやろう。それを望んでやってきたんやから。むしろ最高の人材と思わにゃいかんやろ」豊岡は悟り顔だ。
「しかし、すごい展開になったね。何があったんやろか」平田は、吉田が金丸と直談判したことは聞いたが、まさか樋口が来るとは思ってもみなかった。“なにか裏の事情があるのだろうか”と深読みしたくなる。
「金丸社長が年末に社員面談して、なにか感じられたんでしょう」作田も同じ思いだった。
しかし、こればかりは誰もわからないことだった。
「小田社長はどうなるやろか」
「あんなもんは首よね。いつまでも置いとくことはないよね」豊岡は、小田や浮田のことになると相変わらず辛辣な言い方になる。
「まあ、たとえ身分はどうなろうとも樋口顧問が来られたからには身動き一つできんでしょう」吉田はしたり顔で付け足した。
「後藤田専務と浮田常務はどうなるやろか」小田の交代はほぼ確信できるから、平田はむしろそのほうが気になった。
「わからんけど、これから金丸社長と樋口顧問が相談して決めていかれるやろ」

それは、昨年末のクリスマスを数日後に控えた12月20日、週末のことだった。
「樋口君、中国食品のことだけどな、小田さんには辞めてもらうことにするよ」
「承知しますかね」
「承知するもしないもないさ。奴は面談をやった段階で尻尾を掴まれたと観念してるさ。なにも言質なんか取れなくてもよかったんだよ。これをやると言い逃れができんだろ」
「あー、なるほどそういうことですか」樋口は金丸のしたたかさに舌を巻いた。
「効果が薄れんために早めに通達することが大事になる。非常勤の相談役がいいとこだな。私から言っておく」
「わかりました。それで後任は?」
「それなんだがな」金丸は大きく息をついて、
「君にやってもらいたいと思っている」と言い渡した。
「エッ、私ですか」
「そうだ。君も見てきただろう。これだけの騒ぎを収められて、あの会社を建て直せるのは君しかいない。あそこは君に任せる。好きにしていいよ」

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