更新 2016.05.19(作成 2008.11.25)
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第4章 道程 21. 創立25周年記念大会
樋口は、記念事業推進準備室にこう指示した。
「これからは情報の時代だ。情報を戦略的に収集活用していかなければビジネスに負ける。可部という町はあまりに辺鄙なところだ。交通の便が悪過ぎる。せっかく広島まで来た情報が市内で止まってしまう。サプライヤーにしても友人知人にしても、もう一歩足を伸ばして中国食品に寄っていこうという気にならない。そうするとせっかくの新しい情報が2番煎じ、3番煎じになり、遅れを取る。社員の情報に対する感度やビジネス感覚も鈍らせる」
金丸に言われずとも、何回も東京と可部を往復しているうちに肌で感じた樋口の偽らざる実感であろう。
「それに、これからは人材の時代が来る。可部にいては全国区からの採用も難しいだろう。市内に出るべきである」これも樋口の経営センスだ。
「しかし、経費のほうが……」
「いくら必要かね」
「……」
「ほら見ろ。そんな感覚すらないだろう。市内におればどれくらいの事務所費が掛かるかくらいは自然に身に付く。それが感性というものだ。大体このくらいの広さで年間1億7、8千万円だろう。この程度の費用はなんでもない。それ以上の見返りは必ずある。何もど真ん中でなくたっていい。皆さんに苦労掛けない程度のところでいいんだ。場所は俺が決める」
こうして中国食品は確かな業績回復の足取りと共に昭和63年の秋、長年勤しんできた創業の地可部の町を静かに離れ、本社は広島市中区大手町4丁目に移転した。広島で最も賑やかな商業地である本通りから1キロほど南下し、中心的ビジネス街のややはずれである。
近くに広島市役所や中国電力の本社があり、市電が目の前を走り交通の便も良かった。西側には太田川の放水路が流れ、昼休みには土手の散策などが楽しめる。
金丸との約束など知らない社員たちは、「俺たちの営業所もきれいになった。本社もビジネスの中心に移って会社のステータスも上がり、商売もやりやすくなる」と大いに闘志を湧き立たせた。
可部と大手町の通勤には新たに1時間が必要である。そのため本社だけ始業時間を30分遅らせることで対応することにした。そのこともあって社員は市内への移転を喜んだ。アフターファイブを楽しみにする者も多かった。
こうしてみると会社の所在地は、社員の意気にかなりのウェイトで影響するものだ。
各県への寄付は、これも樋口の哲学だった。
「企業というものは社会が発展するためにある。己のことばかり考えていては意地汚いし、いずれ淘汰される。わが社も地元の皆様に可愛がられてここまでやってきた。少しでも日ごろの感謝の気持ちを表したい」
5県×500万円=2,500万円。ゴロ合わせはここで使いたかったようだ。
「お前たちの好きなゴロ合わせもちょうどいいではないか。少なくとも県に対しての理屈くらいにはなる」
もはや異を唱える者は誰もいない。樋口のそうした志は社員に浸透し、誇らしく共感を覚えた。ただの経済活動でなく、人としての心を企業活動の中に見出していた。樋口が来て、社員はずいぶん変わってきた。彼の経営哲学、精神が社員に浸透してきた証しである。
前にも言ったことがあるが、組織は人が作っている。人が作っている以上、品格もあれば性格もある。明るく伸びやかな風土もあれば陰気で意地悪な風土もある。社会を謀っても利益を追求する企業もあれば、適正な利潤を社会に還元する会社もある。私もいろいろな会社を見てきたが実にさまざまだ。そのほとんどはトップとその取り巻きが作ってきていると言える。そして一度出来上がった企業体質はなかなか変えることができない。トップが代われば社風も変わるかといえばそうはいかない。10年かかってできた風土を変えるには新たな10年の歳月が必要だ。そうした歴史の積み重ねが新しい会社を作っていく。
急激に変えようとするならばそれは革命や戦争のような暴力的変革でしかない。現在の企業における変革は主役たちの交代だろう。過去に不祥事を起こした企業が必死に生まれ変わろうとするとき、責任者をはじめとする主役たちの交代がある。こうした血の滲むような努力をしてこそ早期に生まれ変われるというものだ。
今、厚労省をはじめとして官僚たちの腐敗の実態が毎日のように明るみになっているが、誰も責任を取らないし辞めないから何も変わらない。自分たちの特権や役得の温床である官僚機構をがっちり守り、国民や外部の言うことには一切貸す耳を持たない。もはや彼らには正義も倫理も、最も大事な国造りの使命感も見られない。委員会の答弁などを見ていても、腹立たしいほど問題に取り組む姿勢がうかがえない。むしろ隠蔽(いんぺい)の習癖が強く滲み出ている。天下国家のために生涯を懸けようとした青雲の志を思い起こしてほしい。
この官僚たちをコントロールするには政府が人事権を握ることだ。不正を働いた者、国益に反した者には毅然とした処置を取る。それくらいのことをしないと彼らは変わらない。それができる政党をなぜ国民は選ばないのか。不思議だ。次の選挙は、官僚と対決する政党選びの選挙になるだろう。
昭和63年4月9日創立25周年記念大会の日を迎えた。北は鳥取、倉吉から、南は下関営業所までの1,300名の仲間がバスを連ねて広島サンプラザに結集した。どの顔もめったに着ることのない一張羅の背広を晴れやかに着こなして輝いている。仲間同士、久しぶりの再会に肩を叩き合い、にこやかに握手を交わしている。
受付にはたくさんの祝電や祝いが届けられていた。
午後12時30分。高らかなファンファーレが鳴り、中国食品創立25周年記念大会の開会が宣言された。
総合司会は地元テレビ局のアナウンサーが、演出は大手広告代理店が担当した。
開会の冒頭、社業発展に情熱を捧げながら大会に参列できなかった物故者に対し黙祷を捧げた。
あいさつに立った樋口は、多くの試練を乗り越えてきた創業の歴史を振り返り、
「競争は激化しており、食品の輸入自由化の中で問題は山積している。創業時に思いを致し、新たな決意で英知を結集し、勇敢に難局に立ち向かおうではないか」と社員に呼びかけた。
続いて来賓代表であいさつした金丸は、25年間のマル水食品との関わりを振り返り、中国食品の健闘を称えた。そして、
「このようなとき、25年間の貴重な経験を糧に、新しい時代を切り開く気概と英知をもって発展していくことを希望してやみません」と結んだ。
その後社員の代表として一期生が、組合の代表として吉田があいさつした。
各地区から5組ずつ招待されている大口ディーラーの夫婦も紹介された。
プログラムは順調に進行した。
永年勤続者表彰、成績優良事業所表彰、安全操業事業所表彰、提案活動優秀事業所表彰など次々に舞台に上がっていった。
懸賞論文の表彰は最後だった。1位、2位と順に呼ばれ、樋口社長から表彰状と目録が渡された。平田は胸の高鳴りを抑え切れなかった。こんな大勢の前で表彰されるなんて生まれて初めてである。
“俺が表彰されるなんて”少しの面映さときらめく晴れがましさが心の中で飛び跳ねた。
ついにその時が来た。名前が呼ばれ平田が起立した瞬間、全視線が平田に集中した。平田が進むとその視線も追いかけてくる。照れ屋の平田にはまとわり付くようで鬱陶しかった。
舞台は思ったより高い。会場ははるか遠くまで広かった。しかし、その顔は思いのほか小さく、まるで置物が並べてあるようだ。いつかニュースで見た中国の兵馬俑が頭を過ぎる。そう思った瞬間、今日初めて平田の心は落ち着きを取り戻した。
最後に社長から手を出されたとき初めて目を合わせ、思いっきり握手した。
その後、休憩を挟んで懇親パーティーに移った。パーティーの合い間に、映像と女性の優しいナレーションで25年間の数々の思い出のシーンがスクリーンに映し出された。かっての若かりし映像と現在とのギャップに、ため息や歓声があちこちで沸き上がった。
簡単なゲームやアトラクションなどを織り交ぜながら、パーティーは盛り上がり、盛況のうちに記念大会は幕を閉じた。
社員たちは勇気と自信と英気を大いに養い、新たな時代に向けて羽ばたいていった。
確かに、「21世紀の飛躍」を誓い合えた。