更新 2016.05.19(作成 2008.12.05)
| 正気堂々Top |
第4章 道程 22. 第2ステージ
経営政策、営業施策、人事行政、社員の活力。全ての条件を整えた中国食品は見る見る業績を伸ばしていった。活力を取り戻した営業戦士たちは、的確な営業施策に援護射撃を受けながら市場での戦いに逞しく勝利し、グイグイ売り上げを伸ばしていった。それにつれて株価も上昇し、「2年後には倍にしてみせる」と言った樋口の宣言に迫っていた。ブラックマンデーの影響で一時は200円まで下がっていた株価も、前年度の業績が明確に12億円の経常黒字を達成したことで一気に300円を回復した。25周年記念大会を終えたころには、バブル相場の波にも乗って350円を超えていた。
樋口は特別高度な経営政策を打ち出したわけではない。ごく当たり前のことを当たり前に修正しただけである。普通、それだけで会社は立ち直る。
「自社の常識は世間の非常識」という格言があるが、そのズレが会社を苦しくするのだ。
日産自動車のカルロス・ゴーン氏は、それまで社内では金科玉条のごとく守られてきた系列というがんじがらめのしがらみを断ち切ることで経営難に陥っていた日産を見事によみがえらせた。当たり前のことを当たり前にするだけだが、それができないところに人の悲しさがありそれをやり遂げるところにすごさがある。
業績回復の道筋に確信を持った樋口は、就任以来どこかウロのように拭い去ることのできなかった心の澱みを取り払うことについに動き出した。
25周年記念大会の余韻も治まった昭和63年6月3日(金)、樋口は吉田を市内の料亭に一人呼び出した。
秘書課長の森を、「お前はカウンターで飲んでおれ」と押しやり、2人きりで向き合った。
樋口は床柱を背にして座った。イニシアチブを握っている証しだ。
カウンターから森がオーダーしているのだろう、ビールや焼酎のお湯割りのセットが付き出しや数個の梅干と一緒に出てきた。
仲居が2人のコップにビールを注いで出て行くのを待って、樋口はおもむろに話を切り出した。
「どうだ、君たちが組合を結成した目的は達成したのじゃないかね」
低い小声だがしっかりした声だ。
「会社は正常化しましたか」吉田は、一気に飲み干そうとしたビールを押し留めて聞き返した。
「俺がやっているのだ。もう大丈夫だ。これからますます弾みがつく。今年の利益は経常で30億は行くだろう」
「そんなに出るんですか」かって聞いたことがない水準だ。
「体がスリムになって、生産設備はフル操業の状態で、営業が頑張っている。これで利益が出ないようならこんな事業は止めたほうがいい」
「しかし、去年やっと黒字になったばかりでしょう」
「去年だってその前の年からすると32億の改善をしておる。今年はその上に乗る。俺の読みじゃ30億を超える。間違いない」
「それにしちゃ、春闘は厳しかったですね」
「利益は出るが体力は回復しておらぬ。借入金もまだたくさん残っているし、やることは山程ある。水準を訂正する体力はまだない。ここで手綱を緩めたら元の木阿弥じゃ」
「しかし、組合員も長い間ずいぶんと我慢してきましたし、今も頑張っています。栄養も与えませんと疲れが出ます」
「わかっちょる。賞与で考えればいいんだよ」ぶっきら棒に言ってコップのビールをグイと飲み干した。
「基本的考え方として、賞与はフローだ。単年度の業績、いわば損益計算書で図ればいい。しかし、賃金はバランスシートで考えなければいかん。企業の体力、つまり財務体質がベースだ」
仲居が刺身と冷奴の小鉢を並べ、「お湯割りを作りましょうか」と作り始めた。少し間が空き、2人とも黙って箸を動かした。樋口は酒豪ではあるが健啖家ではない。料理は数品あればよかった。緊迫した空気を察して、仲居はお湯割りを作ると愛想も言わずにそそくさと出て行った。
「ここまでが第1ステージだな。君たちが描いたとおりの正常化の第1幕だ。その戦略も行動力も見事だった。俺をここまで引っ張り出したんだからな」皮肉たっぷりだった。むしろ恨み節に聞こえた。
「しかし、これからはさらに飛躍するための第2ステージに入る。そのビジョンとシナリオはあるのかね」
「それは社長ご自身が描かれるべきでしょう。優秀なスタッフも大勢いるじゃないですか。労働条件のビジョンは私たちが描きますが、経営政策は経営権の範疇です。組合が口出しするようになったらおかしくなります。組合は経営のチェック機能に徹するべきだと思っています。私たちは会社を建て直し、いい会社にしたいと思っているだけです。それは願いなのです。2年前パレスホテルでお会いいただいたのも、その方策にすぎません」吉田も言い訳がましく言った。
「よろしい。そのとおりだ。これからのビジョンはおれが描く」
「はぁ」吉田は“当たり前だろうに、何を今更”と浮かぬ相づちを返した。
樋口は、酒とタバコを交互に口に運びながら何やら考えていた。
「これからは人作りと経営の近代化だ」密かに暖め続けていたビジョンだろうか。
「ボードの在り方も考えんといかん。いつまでもマル水の植民地では会社が伸びない。そのためにはマル水に口出しされない経営をすることだ」
“あんたは今までそのマル水からの支配者を何人も送り込んできたじゃないか。あんただってその一人だろ。自分が社長になるとそれを否定するのか”吉田は、都合のいい話だと思いながら、
“しかし、それはそれでありがたい。ぜひやってほしいものだ”と期待を抱いた。
樋口はそんな吉田の気持ちなど気付かぬふうで、自分に言い聞かせるかのごとく一つひとつ噛みしめ、うなずきながら話を続けた。特に「マル水に口出しされない」ところを強く意識した言い方だった。
「経営の近代化は情報化だ。手作業の時代ではなくなった。意思決定を早くするのが鍵だ。コンピューター関連への投資が要る。それと、何よりもこれからは人作りだ。人作りには時間と金が必要だ。研修センターを自前で持つことにする。その稼働率をいっぱいにするくらいの教育をしていかんと間に合わん。これらにはスピードと金が要る」
最後のフレーズには力がこもっていた。
「収益は上がるが、金は出せん。君たちの立場は苦しいものになるだろう」
「苦しいのはいつも同じです。随分忍耐を強いられてきました。組合員にもかなり厳しい我慢をしてもらいました。多少の我慢は覚悟しています」
「ところがだな、これから利益が出てきたとき、我慢できるかだ。君たちの行動力に組合員は期待している」
「いいことじゃないですか。組合員から期待されないような組合ならやらないほうがマシです」皮肉っぽく口元を少し歪めて、茶化すような言い方をした。
「そうじゃない。君たちがやっていては組合員が期待するということじゃ」
少し語気が強くなり、苛立ちを顕わにした。