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 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.4-20

本社移転

更新 2016.05.19(作成 2008.11.17)

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第4章 道程 20. 本社移転

プラザ合意後の円高とグローバル化は日本経済に大きな衝撃を与えた。市場では円高により相対的に割安となった海外の商品が安価に輸入され、コスト競争が熾烈さを増していった。輸出産業も海外市場での価格競争力を失い、一層のコスト削減が求められた。
食品業界も例外ではなく、中国食品も海外からの並行輸入品に悩まされた。しかし、山陰工場の閉鎖による固定費の削減と生産効率の向上が、コスト競争にギリギリのところで間に合わせた。
初めて経験する円高とグローバル化経済は、欧米を目標にキャッチアップを目指しておればよかった日本経済の先行きに、大きな不安と不透明感を与えた。世の中で、不透明とか混沌(カオス)といった言葉がさかんに使われ出したのもこのころである。経営の不安心理を反映している。
しかし、こうした劇的な環境変化の中で日本企業は高い技術力と円高を武器にして海外への進出を見事に成し遂げ、グローバル化への鮮やかな対応を見せていく。賢明な日本人の英知だろう。それは為替リスクを避け、海外での市場拡大と安価な労働力を求めて生産部門を海外に移す、いわゆる空洞化と言われるものだ。
空洞化によって国内に失業が溢れ、市場はますます冷え込み社会不安に陥ると心配されたものだが、それも軽微で終わり日本企業はグローバルに生まれ変わり、よみがえった。
円高は売り方においてはハンディとなるが、買い方においては大きな武器となる。米国資産の買い漁りや海外旅行がブームとなったことも記憶に新しい。
このように80年代以降の世界のビジネス環境は、ボーダレスに広がりをみせるグローバル化の時代だった。同時に大型コンピューターやパソコンの普及がそれを支えるという、情報化とグローバル化が相互に補完し合いながらそれぞれが急速に進展していく新しい時代の幕開けだった。

大方の懸賞論文もそんな世相を反映したものが多かった。
8月、論文の募集が開始された。締め切りは来年の1月末である。当初、応募状況は芳しくなく、12月に入り灯火親しむ候を過ぎても応募数は18本と準備室をヤキモキさせた。しかし、準備室の働きかけもあり正月休みを過ぎると一気に集まり、最終的には138本となった。社員たちは熱い心を忘れていなかった。
吉田は組合役員全員に懸賞論文に応募するよう頼んだ。
「私たちの活動は会社の正常化が原点です。今回の懸賞論文も主旨は同じです。上手い下手ではなく応募することに意義があります」
組合執行部役員は全員応募した。その中で見事に平田と吉田が並んで3位入賞を果たした。
1位は福山工場の小集団活動グループだった。日ごろ工場の改善を主に活動していたが、懸賞論文もグループで研究していたのであろう。文殊の知恵を発揮し、見事1位を獲得した。
2位は本社開発室の課長と山口営業所の社員の2人が選ばれた。開発室の課長は本来それが仕事であり、入賞しないようでは困る。
そして、3位に平田が入賞した。論文の主旨は、
「これからの世の中を推測するに、団塊の世代とそのジュニア世代の消費行動と生活様式を無視して考えることはできない。なんだかんだ言ってもこの世代が一番人口が多く、これまでも経済や世相を牽引してきた。団塊の世代は中年から定年を迎えるころに差し掛かり、ジュニア世代が社会人として登場してくる。消費の傾向やパターンは大きく変わっていくだろう。具体的には……。企業のビジネスもここに目を向けて展開すればチャンスは拡大するだろう」というもので、世代別人口推移などをグラフなどで示しながら次の時代を推測する論理を展開していった。自分では、もっともな話だし良くできていると得心していた。
応募論文は『飛躍への提言』と銘打って小雑誌にまとめられ、『25年史』と共に全社員に配布された。平田は他の論文も丁寧に読んだ。どれも良くできていたが、自分の作品も他の論文に比べて遜色ないと自負した。

話は少し遡る。記念事業推進準備室が立ち上がった直後の昭和62年6月。樋口は、金丸に呼ばれマル水食品の会長室にいた。樋口がマル水食品から中国食品へ出てちょうど1年目の株主総会直前である。
「元気ですか。さすが樋口さんや、業績も見る見る回復してきたようですね」金丸は樋口が中国食品に出て以来、それまでの「君」付けから「さん」付けに呼び方を変えた。上司部下の関係から、関係会社のトップとして敬意を表したのだ。
「ありがとうございます。皆さんのお陰でなんとか赤字からは脱却できそうなところまで来ました。それに来年は創立25周年記念の年に当たります。何とか黒字で迎えたいと思いまして」
「あっ、そう。もうそんなになるかね」金丸は感慨深そうにした。
「そのためばかりでもありませんが、早く赤字からは脱却したいと思いまして政策をかなり強引に急ぎました」
「うん、それがいい。トップの使命だからな」金丸は少し息を入れた。
「ところでどうですか。それはちょうどいい話なんだが、25周年を機会に本社を市内に移転しては」
「本社移転ですか」樋口は突然の提案に驚いてみせたが、“なにがちょうどいいのだろう”と、腹の中で訝った。
「そうだ。いつまでも田舎に燻っておるわけにもいかんだろう。いい機会だと思うよ」
「しかし、創業の地ですからね」
「会社というものは身の丈にあった佇まいをしなくてはいかん。新しい酒は新しい皮袋に入れろというじゃないか。新しく生まれ変わった中国食品も新しい本社に移転すべきだと思うが、どうかね」
「はあ、」樋口はまだ納得がいかないまま、生半可な相づちを返した。
「それにこれからの時代は情報化の時代だ。可部という町は辺鄙だ。情報が市内で止まってしまう」
可部という町は昔は安佐郡可部町だった。昭和47年4月に広島市の広域合併政策で市の行政に組み込まれた。四方を山に囲まれ、旧市内との境には太田川が流れ、自然環境は申し分ないところではあるが交通の便が悪かった。そのため開かれた文化のイメージには程遠く、市に合併された後も市民意識はなかなか定着しない。今でも日常会話の中で、市内といえば旧市内でまかり通っている。
「あのー。何か具体的お考えでも」樋口は探るように聞いてみた。
「うん。実は君も知っているようにわが社の大手町の冷凍工場だけどな、あれももうずいぶん古くなった」
「私は若いころ、あの工場で勤務したことがあります。今でも冷凍庫で震えあがったのを覚えています」
「そうだったな。確か私の後任だったな」
昔、この大手町界隈は海のすぐ縁(ヘリ)で、小さな工場群が立ち並んでいた。それが放水路の整備によって臨海部分が開発され、市の発展と共に海岸線は広島湾沖に後退し、今ではビルやマンションが立ち並ぶオフィス街となってしまった。
「もうあそこでやっていくような事業ではなくなった」
「そうですね、物流の便や地価を考えるともったいないですね」
「そこで、工場を草津の商工センターに新築中だ」
「それはいいですね」
「それで跡地を遊ばせておくわけにもいかんのでな、マンションを建てて分譲しようかと思っている。その資金で工場の新築費用を賄えばちょうど帳尻が合う。工場が新しくなった分だけ効率が良くなるというもんじゃ」
「なるほどですね。いいお考えです」
「ところが少し土地が余る。そこでオフィスビルを建てようと思っているのだがこのご時世だろ、浮き沈みが激しいからな」
“なるほどそうか。それでわが社に入れと言うのだな”樋口はやっと飲み込めた。
“それに会長の言うとおり、これからは情報化の時代だ。いつまでも可部にこもっているのも考え物だ。ファイナンスのこともあるし、いっそこっちから恩を売っておくのも悪くないな”樋口の回転は早かった。
「わかりました。うちがお借りしましょう」
「おー、わかってくれたかね。ありがとう」金丸は手を伸ばして握手を求めた。
「総会も近いので、道筋だけは付けておきたくてね」

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