更新 2008.03.25(作成 2008.03.25)
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第3章 動く 53. 戒めの開封
1人部屋に戻った吉田は、満足感と不安感が交錯した。
“一介の子会社の組合の委員長の言い分など聞いてくれるのだろうか。結局何も約束してくれなかったではないか。もし失敗に終わったらみんなに会わす顔がない” そう思いつつ、反面“言うべきことは言った。少なからず金丸の心に残るものがあったはずだ。トップマターとして預かるとも言ってくれた。あとは天命を待つだけだ”そう自分に言い聞かせてもいた。
期待と不安を残して悲願のトップ会談は終わったが、果たして金丸はどう出るのか。それがわかるまでうかつな行動はできない。しかし、一時金交渉は来週から始まり熾烈な攻防が予想されている。吉田にはまだまだ試練の時が続くように思えた。
翌朝のチェックアウトのとき、吉田の宿泊代は既に清算されていた。自費出張と知った金丸が処理させたのだ。鰤のお礼のつもりだろうか。吉田はその場で手を合わせた。
週が替わった11月26日、一時金交渉が始まった。予想されたとおり、冒頭から厳しいものとなった。会社回答は固定部分だけの2.3カ月で組合の要求する清算払い部分は0回答だった。固定部分は昨年までは2.5カ月で協定してきていたが、今年から会社が苦しいということで2.3カ月になっていた。
会社は、昨年の交渉で固定部分を削って回答したとき、組合にいきなりストライキを構えられた苦い経験から、今年は苦しいながらも固定部分は確保してきた。
しかし、組合は強気だった。吉田が「今年は思い切りやりましょう」と宣言していたこともあって三役も気持ちがはやった。しかし、平田だけはそんな組合の動きを注意深く見ていた。
初回の交渉の後、早速スト権確立の手続きが取られ、否が応にも闘争ムードは盛り上がった。
そうした組合全体の盛り上がりとは裏腹に、吉田の気持ちは複雑だった。ここで実力行使に出ることは、マル水食品つまりは金丸に対する揺さぶりになる。もし金丸が何らかの善処を考えているとしたらそれは大変な不遜の行為になる。かといって金丸が何もしてくれないということであればもっと強力な手段も覚悟しなければならない。
“どうなんだ” 吉田は神経を研ぎ澄まして、金丸がどっちに行くのか模索した。時期はいつごろか、何かちょっとしたヒントでもサインでも欲しかった。しかし、吉田がどんなにやきもきしても交渉は進む。だんだん煮詰まってきて、決断の時期は迫ってくる。
そのころ一方の金丸に、吉田のそんな心情にまで思いを馳せるゆとりはない。関係会社だけで30近くあるのだ。そこまで吉田のことだけに肩入れしているわけにいかなかった。ビジネスとして親会社の責任を淡々と果たすだけである。
しかし、中国食品が重大な状況にあるという認識は十分あった。他の事案と同じレベルで扱おうとしていたわけではない。吉田の直訴もあって、対応を考えようとしていた。
吉田と会ってちょうど1週間後、11月も実質今日が最後の稼動日となる29日である。数々の案件処理に忙殺される中、金丸は社長室に樋口と松本を呼んで吉田の話を協議した。もし、何らかの決断を要するとしたら年内に決めておきたかったからだ。
金丸は、まず2人の意見から聞いた。
「どうだ。吉田君のことをどう思ったかね」
「そうですね。嘘を言っているようには思えませんでしたが、果たしてそれほどひどいものなのかどうか」樋口は半信半疑といったふうだった。
「内紛の臭いはないようだったな」
「はい。それはないように思います。社員に話を聞いてくれというあたり、内紛ではできないことです」
それじゃ一応内紛の芽はないとして、工場の運営の件とか業者との癒着とか、いわばトップの行状についてはどうだ」
「証拠がなければうかつに扱えませんね。業績を理由にしただけでも首にしようと思えばできないことはないですが、業績だけなら他にも似たような会社はありますからね。もう少し実態を調べてからでもいいのではないですか。どこまで信用していいものか」
「彼は信用できないかね」
「いえ、信用できないということではありませんが、もっと慎重に進めましょうということです」
「私は、彼には人間的に実があると思っているのだがね」
「実ですか?」
「そうだ。真実とか誠実の実だ。嘘やごまかしがなく、自分の真心を語っていると思ったんだ」
「真(まこと)ということではそうかもしれません。しかし、それがかえって事実を大げさにする可能性もあります。それに経営として私たちが見る目と彼が見る目が同じとはかぎりませんから」
「しかし、このまま不問にするわけにはいかんだろう。社員からこれだけ不信感を抱かれては建て直しが利かんだろう」
「そうですね。しかし、今年再任したばかりで任期があと1年ありますからね。首にするにはそれなりに固める必要があります」
「よし、わかった。それじゃ社員と話をしよう」
「エッ、それをやるのですか」
「そうだ、君と俺でやる。そりゃそうだろ。吉田君もああ言っているし、実態を調べなきゃと今君も言ったじゃないか。一緒に見に行こう」
「そうですか、わかりました」樋口は、“やれやれ”の気持ちだった。
「時期や方法は後藤田に任せていいだろう。これも早いほうがいいぞ。年度末が近いからな」
こうして、吉田の思う筋書きどおりに事は運び出した。まさに僥倖だった。
しかし樋口は、“小田社長と主だった役員を2、3人呼び付けて「どうなんだ」と脅し付ければそれで済むじゃないか”と、金丸がそこまでする意図を理解しかねた。それこそ吉田に入れ込みすぎじゃないかと思った。
しかし、金丸がそう言う以上逆らえない。後藤田の段取りに任せた。
12月も第1週が過ぎ、中国食品のほうでは一時金交渉が大詰めを迎えていた。吉田は、はやる交渉委員たちをなんとかなだめながらここまで引き延ばしてきたがもう限界に近かった。その急先鋒が豊岡だ。こんなときムードで舞い上がる。
「委員長も思い切りやろうと言うたやないね。ここまで来たらやらにゃしょうがないやろ」広島弁でまくし立てた。
こんなとき、豊岡のなだめ役は平田だ。
「まあまあ。気持ちはわかりますが一時金では実力行使をしないというのが方針だったやないですか。もう少し粘り強くやりましょうよ」
「それで何かが変わるんね。会社も一時金も何も変わらんのと違うか」豊岡もここまで来たらなかなか引き下がらない。
「それじゃ、どうしたらいいですか。皆さんも考えてください」作田がみんなの意見を聞いた。
ほとんどの者が、「何かアクションを起こそう」ということで大勢を支配した。
もう時間がない。吉田は追い込まれた。この瞬間に決断しなくてはならない。吉田は必死で考えた。“どうするか”その一点に全神経を凝縮した。うつむき加減に眉間に皺を寄せ、一心に考えた。思考が最高潮に達したとき、全ての雑事が昇華され純粋に物事の本質が浮き上がってくる。考え抜いた末、
“そんなに都合よく物事が運ぶわけがない。金丸社長を当てにするから交渉の矛先までが鈍ってしまうんだ。純粋に交渉だけを考えて判断すればいいんだ”と、一つの境地にたどり着いた。そして、
「それじゃ、どんな手を打つか協議してください」ついに戒めの封を切った。
そして、実力行使第1弾として“三六拒否”が会社に通告された。12月6日(金曜日)だった。