更新 2008.04.04(作成 2008.04.04)
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第3章 動く 54. 脅し
モデルライフサイクル生計費ビジョンに基づく一時金の要求と、業績悪化による会社の支払い能力とが真っ向から対立した論争は激しいものだった。双方が口角泡を飛ばし、机を叩いての激論となった。
組合は、「我々は法外な要求をしているのではない。こんなささやかなモデルの生活もできないのか。組合員は必死で働いているのに、業績が振るわないのは経営ミスによるもので、責任は誰も取らないではないか。付けだけを組合員に押し付けるのは許されない」と激しく詰め寄った。
一方、こういうときの川岸は頑固だった。一歩も引き下がらない。
「こんなときだからこそ、社員が一丸となって力を合わせて業務に邁進すべきだ。賃金は自ずと後から付いてくる。人は金だけで動くんじゃない。心で動くものだ」というのが彼の論理で、労務担当部長になった当初から一貫していた。元来の真面目さがそれを信念にまで高めていた。決算数値見込みもすべて開陳して駆け引きは一切ない。「そんな原資がどこにある」と開き直りに近かった。
川岸はまだ若かった。労務担当となって日も浅く、組合に対して真正直に対応した。当然会社から与えられた枠そのものに余裕がなかったことにもよるが、いい交渉をしなければという責任感が勇み足にもなった。根が真面目なだけにこういうときには融通がきかない。力と力の押し相撲になってしまい、双方抜き差しならぬ状況となった。後藤田ならば、交渉全体を眺めるゆとりがある。常に落としどころを探りながら交渉全体の流れをコントロールする老練さを持っている。組合も安心感があり、落ち着いた交渉ができた。その点川岸にはまだそんな老獪さはない。初心者マークの運転のようなもので、危なかしかった。
ついに12月10日から三六拒否に突入することになった。
川岸は急いで後藤田に報告に行った。
「大変申し訳ありません。私の交渉が拙いものでこんなことになってしまいました」申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「いやいや、ご苦労さん。大変でしたね」後藤田はニコニコしながら労をねぎらった。
すっかり怒られるものと覚悟していた川岸は、拍子抜けがした。
「いやー、よくここまで持ちこたえたよ。すぐにでも泣きついてくるかと思っていたのだがね。ハッハッハ」後藤田は楽しそうだった。
自分はすでに退任を覚悟していたし、今週末の13日には金丸らが社員と面談するというオファーを受け、すでにその準備が整っていたからだ。このことがある限り、交渉は必ず終わると確信していた。そして後藤田の頭の中には、交渉のシナリオが既に出来上がっていたからだ。今は交渉担当としての川岸のOJT期間だった。
金丸らのことは人事部長である川岸は当然知っていたし、主に彼が後藤田の手足となって段取ったものだった。しかし、前後の子細までは知らされていなかった川岸にはそのことがかえって“金丸社長らが来る前に交渉を終わらせておかなければ”という大きなプレッシャーとなって力みに繋がった。
また、「いつまでもたついているのだ。そんな交渉担当者はダメだ」と思われるのも嫌だった。そのためこれまで必死で交渉してきたのだった。それを後藤田は笑い飛ばしている。なんだか面白くなかった。
そんな川岸の心情などお構いなしに、後藤田は交渉の要点を語り始めた。
「いいかね。交渉というのはね、真っ向から立ち向かうだけではダメだよ。周りの状況、相手の実力、こちらの状況等をよく考えてどの辺に落ち着くのが一番いいか、どんな形でどうやってこの交渉を終わるかという視点を常に持っていなくては暗礁に乗り上げる。そのためには押したり引いたり、たまには手練手管が要るときもある」
「はァ、はァ」と川岸は神妙に聞いている。
「交渉の本質が何かわかるかね」
「交渉の本質ですか。いえわかりません」川岸は素直に聞いた。
「交渉の本質は脅しだよ」
「脅しですか」川岸は驚いた。交渉とは、お互いに誠意を尽くして話し合ってはじめて成り立つと信じていたからだ。
「そうだ。‘この話しが上手くいかなかったらあなた方は困るでしょう。だからこれで折り合いなさい’というのが本質だよ。だからこちらは毅然とした態度でその弱みを相手に悟られないように、相手の弱みは巧みに利用してこちらの思うところに押し込んでいく。それが交渉だよ。例えば今回の金丸社長との面談だが、まだ組合は知らない。‘あなた方は金丸社長を戦闘状態で迎えるのですか。労使は頑張っていますというところを見せようではないか’と持っていくのがこちら側の作戦になる。逆に組合は、‘一時金なんて簡単な問題をいつまで揉めているんだ。そんなものを解決できない経営をやっているのか’というところを見せようとするのが作戦になる。だから脅しなんだよ」
「あっ、なるほどですねェ」川岸は感心した。
「この件は、諸刃の剣で上手く使ったほうが勝ちだ。まあ、会社の勝ちだけどね」と言ってニヤッと笑った。
川岸には何の意味か全くわからなかった。
「材料はそのときそのときでいくらでもある。女や金のスキャンダルが一番いかん」
「なるほどですねェ」川岸は大きくうなずいた。
「それで今回の交渉だがね。今の組合は失うものが何もない。回答は最低ラインだし、労働条件も良くなりようがない。だから脅しが効かないんだよ」
「それじゃどうしたらいいんですか」川岸は本気で困ったようで、途方に暮れた顔になった。
「だから、今回はこちらに勝ち目はないということだ」
「……」川岸は交渉責任者としてどうしていいかわからなくなった。
「こういうときは誠心誠意尽くして、いくばくかの握手料を出して、なんとか泣いてもらうしかない。それが交渉全体を見るということだし、役者のしどころだよ」
「会社の勝ちと仰ったのがそうですか」
「いやいや、当たり前に行ったら今回はこちらに勝ち目がないから、金丸社長を上手く使って勝ちに持っていくということよ」
「はァ。しかし、私にはよくわかりません」
「うん。そのうち交渉が終わったらわかるよ。なにも押さえ込むことだけが勝ちじゃない。いい落としどころにいい形で落としてみなさい。交渉冥利につきるというものですよ。それが勝ちということです」
「あのう、それで握手料は出るのでしょうか」川岸には一番気がかりなことだった。
「それを取ってくるのも交渉担当者の腕だ。いいかね。交渉担当者は組合ばかり見ていてはだめだよ。交渉相手は組合と会社と両方がそうだということを覚えておかなくてはいかん。この両方を上手くコーディネートするのが君の役割だ」
川岸は泣きたくなった。自分は会社のためにこんなに一生懸命やっているのに、その会社も交渉相手だなんてなんだか会社から見放されたような気がした。
「会社からはどうやって取ってくるのですか」“それができれば簡単だ。それができないから困っているのに”川岸はそう思って必死で聞いた。
「こちらのほうが簡単だよ。会社も交渉相手だとすればこれも脅しの論理が効く。しかし、今の君が会社を脅すわけにはいかないから、ここは私に任せなさい。私のやり方をよく見て勉強したらいい」
「ハイ。ありがとうございます」川岸は心から礼を言った。後藤田の親心がありがたかった。
「しかし、10日から三六拒否に入りますが間に合いますかね」
「まあ、1日や2日はやらさなきゃ収まらんだろう。彼らも顔があるし、下部のガスも相当溜まっているからな。そんなことにも目配りしながら全体を見て交渉の行方をコントロールすることだ。12日までに終わればいいだろう」
「収まりますか」
「そのときは僕が首を出すよ」最後に、交渉担当者としての覚悟も示してみせた。もっとも、すでにその覚悟をしていた後藤田だった。