更新 2008.02.25(作成 2008.02.25)
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第3章 動く 50. 対面
早めのチェックインをした吉田は、シャワーを浴び、髭を当たって髪をセットし、下着からワイシャツまで新しいものに着替えてネクタイを締め、上着をキチンと着て連絡を待った。
“あれほど願って止まなかった親会社の社長が、一介の子会社の組合委員長にわざわざ時間を作って会ってくれるという。なんという律義な人であろうか。真心には真心で臨まなくてはきっと負ける”吉田の戦いはすでに始まっていた。吉田は、部屋の小さなテーブルセットの椅子に背筋を伸ばしてキチンと座り、両手を膝の上に置き、ジッと目を閉じてそのときを待った。金丸の誠意に対する吉田の敬意の表し方だ。吉田とはそういう人間だった。
フロントから連絡が入ったのは6時ちょうどだった。
「マル水食品関連企業課、課長の松本と申します。お待たせしました。これからよろしいでしょうか」
「ハイ、吉田です。只今降りていきます」
「いえ、お部屋でお待ちください。顔を知らない者同志、行き違いになってはいけませんのでこちらからお迎えに上がります」
吉田がドアの前で待っていると、松本は3分もしないうちにやってきた。
「吉田さんですか。松本です。よろしくお願いします」
「吉田です。お世話になります」初めて会う2人は改めて名乗り合った。
「それでは参りましょう」そう言うと松本は踵(きびす)を返し、さっさと歩き出した。吉田は黙って後を付いていった。
自然と胸の鼓動が高鳴り、武者震いを覚えた。
吉田が案内されたのは9階にあるレストランの個室だった。中は6人がゆったりと座れるテーブルに白いテーブルクロスが眩く輝いていた。窓の外は薄暮に煙る皇居外苑の景観が広がっていたが、緊張している吉田には鑑賞する余裕はない。
そこには初めて見る金丸と樋口が待っていた。世紀の対面の一瞬である。
金丸と樋口は立って吉田を迎え入れた。
「いやー、遠いところをご苦労様です。金丸です」
「樋口です」
「吉田優作です」吉田は踵をきちんと揃え、両手を膝の上に揃えて深々とお辞儀をした。
「ささ、どうぞ」と金丸は自分の正面のイスを勧めた。
吉田にはどう見ても上座と思われたが、「今日のホストは自分たちですよ」という金丸たちの無言の意思に逆らえなかった。
「今日はお疲れ様でした。遠かったでしょう」
「いえ、これくらいなんでもありません」
「そうですね、まだお若いから。どうやって来られたのですか」
「新幹線で来ました」
「そうですか。お一人ですか」
吉田は、早く今日のお礼を言いたかったがなかなか切っ掛けを与えてくれない。
「今日は、会社のほうはどうされましたか」
「有給休暇を出してきました」
金丸はそれで全てを察した。公務扱いにしたのなら他の者に漏れる可能性も考えられるが、有給休暇にしたという吉田の思慮に一種の安心感を覚えた。
松本が、レストランの係の者に「少し話があるから食事は後で頼む」と告げた。それを待っていたかのように金丸が本題に入った。
「今年は天候不順が響いたのかわが社も業績が振るいませんでね、大変苦戦しております。今、営業部にハッパを掛けているところです。ところが、営業部というところは天候だとか市場がどうだとか、外部環境のせいばかりにしよる。自分たちの努力不足は棚に上げおって、これじゃ修正のしようがない。年々言い訳ばかり上手くなりおって」ここで一息入れ、
「中国食品ではどうですか」と水を差し向けてきた。
吉田は、いきなり中国食品の業績に切り込まないところに金丸の老練さと配慮を感じた。大上段に「どうなっているんだ」とか、「お前は何が言いたいのだ」と構えられたら、きっと話は半分ほどしかできなかっただろうと思った。
「その前に一言お礼を申し上げます。今日はお忙しいのにわざわざ時間を作っていただきまして、ありがとうございました」吉田は起立して深々と頭を下げた。金丸の配慮でその場の雰囲気にも少し慣れてきた。
「まあまあ、そんなことはいいんですよ。これも役目の一つですから」
そんな話を聞いていた樋口がしびれを切らしたかのように、
「春にはデモ行進を準備されていたようですが、なかなか元気ですね」と、皮肉たっぷりに浴びせてきた。言外に「俺はまだ信用していないぞ」という響きが感じられた。
「アッ、すみません」つい、いつもの口癖が出た。吉田は、樋口の言い方に別の意図を感じたが、反応したらそこで終わりと気にしないことにした。
「あれは、思い余ってつい行き過ぎてしまいました。しかし、今でも決して間違ったことをしていたとは思っておりません。もし、今日の会見が実現していなかったら、形を変えて第2第3のデモが起きていたかもしれません」
「どうしてそれほどまでデモに拘るのですか」金丸が不思議そうに尋ねた。
「デモに拘っているわけではありません。株主様に注目していただきたい。中国食品をよく見ていただきたい。その手段として他に思い浮かばないだけです」
「私たちの関心が足りないと」
「そうは申しておりません。普通なら十分なのでしょうが作為的に隠された悪意があるとしたら、それを打ち砕く強い修正行動が必要です」
「それがデモ行進だということですね」
「はい。私たちだってデモなんてやりたくありませんし、目的でもありません。今こうしてお話しできるようになって、あのときやらなくて良かったとつくづく思っております」
「そうですか。してそのときはどうして思いとどまったのですか。そのときにはまだ今日の話はなかったはずですが」
吉田は、河村に説得されたことや後藤田が組合の立つ瀬に配慮してくれたことなどをかいつまんで説明した。それによって金丸は、中国食品の勢力構図をおぼろげながら理解した。
「そうですか。そんなことがあったのですか。ところで、小田社長は団交に出てきますか」
「いいえ、一度もありません。後藤田専務に任せっきりです」
「みなさんとお会いすることはないのですか」
「年に一度、労使懇談会でお話しすることがあります」
「それだけですか」金丸は深くため息をついた。
「事業所のほうにもなかなか顔を見せてもらえません」
「なるほど」今度は樋口が小田をなじるように語尾を上げ、口を歪めてつぶやいた。
当然のことながら会談は金丸主導で進んだ。吉田は金丸を信じてその流れに黙って乗った。吉田には、金丸が状況把握から少しずつ話の輪を縮めていっているように思えた。
一方の金丸も、
“吉田が、デモ騒動を起こしてまでもわざわざ会いたいというからにはきっと何か訴えたいものがあるはずだ”そう思って慎重に話を進めた。
「私たちも、中国食品の経営が苦しいことは早くから把握しております。山陰工場の設備投資が上手くいかなかったことや販売が伸びないことも聞いております。しかし、そんなこと社内で軌道修正できないのですかね」
「役員会が硬直しています」吉田がキッパリと言い切った。
金丸はどこかで聞いたことがあるような気がした。そういえば後藤田が「わが社の現状は神風でも吹かないかぎりどうしようもないほど膠着しております」と言っていたのを思い出した。そして吉田が、「硬直しているようです」とは言わず自己の確信として言ったことに好感を持った。他人の受け売りでは責任の半分を他人に押し付ける。責任を負った発言が、金丸に話し合う価値があると思わせた。