更新 2008.02.05(作成 2008.02.05)
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第3章 動く 48.信じるもの
昭和60年11月12日(火)、‘年末一時金要求書’が会社に提出された。回答指定日は2週間後の11月26日(火)だった。
組合は所定の手続きを踏まえ、モデルライフサイクル基準に基づいて要求水準を2.8カ月として決定した。これは、月例給与や時間外賃金など全てを算入して、35才標準者がやっとモデルライフサイクル基準に届く水準だった。業績や会社の実情を考えると2.5カ月でも高いといわざるを得ない状況であるが、要求基準に従うと2.8カ月にせざるを得なかった。そこにテクニカルな要求基準を設定した組合のジレンマがあった。
中央委員会ではこれでも不服とする者がおり、もっとゆとりある水準を目指すべきではないかという意見もあった。人が大勢集まると、こういう無鉄砲なことを言う輩が必ず出現する。しかもこういう輩は威勢がいいだけで状況認識を全くしない。執行部は「会社がこういう時期に望むべきことではない。今の時期は堅実な根拠で望まないと上滑りの活動になってしまう」と退けた。
しかしその裏腹に、皮肉にも後藤田と金丸が会談しているなど露ほども知らない吉田は、平田と同様に“もはや誰も当てにできない。自分たちで何とかしなければ”と考えるようになっていた。この一時金闘争をその材料にしようと思っていた。
“12月になると拡大取締役会が開かれるはずだ。そこまでが勝負だ。どう揺さぶりをかけ、マル水の本丸にどうたどり着くか”そのことばかりを考えるようになっていった。
要求提出後、吉田は三役を集め今後の考えをまとめておくよう要請した。
「今度の一時金闘争をどう展開するか、みんな考えておいてください」
「今度が最後のチャンスかもしれん。今度こそマル水にわかるような展開にせんといかんね」作田が答えた。
「私もそう思います。結局誰かを当てにしたらいかんのですよ。そんな活動なんかうまくいかんのですよ。自分たちの力でなんとかしましょう」平田も、先日釣りをしながらまとめた自分の考えを確信しながら言った。
「12月の拡大取締役会。そこが一つの山やろう。そこまで何をするか。そこで何をするか」吉田は、考えるポイントを示唆するように言って、
「みんなよろしくお願いします」と頭を下げた。
一方、そのころマル水食品では後藤田の懇請を受けた金丸が社長室に専務の樋口祐輔を呼び、吉田との会談に同席するよう話を進めていた。組合が要求書を提出した11月12日の2日後である。
話が長くなると思った金丸は、デスクを離れソファで樋口と向き合った。
「中国食品の業績がどうしても回復しない。さらに悪化の一途をたどるばかりだ。君はこの辺をどう見てるかね」
「山陰に造った工場が大きすぎたように聞いております。売り上げが落ち込んでいるのも、拍車をかけているように思いますが」
「それがどうも投資の失敗だけではなさそうなんだ。先日、後藤田君にその辺のところを聞きただそうとしたのだが頑として口を割らない。それどころか組合の委員長に聞いてくれと言うんだ」
「組合の委員長にですか」樋口は呆れたような声を出した。
「取締役として経営状況を報告するのはナンバーツーの務めでしょう。何を考えているんですか」さらに非難がましく罵った。
「まあ、そうなんだが、彼にしてみれば自分にも責任がある。その自分が社長を差し置いてするわけにはいかないと言うんだ」
「だったら社長にお聞きになったらいかがですか。それが筋というものでしょう」
「それはそうだが、今までもそれできて奇麗事ばかりでごまかされてきたじゃないか。それで済む話ならこんな状況になってないのと違うか」
「何かあるのですか」
「そうだ、何か含みがありそうだ」
「お止めになったほうが良いと思いますよ。なんだか胡散臭いものを感じます。組合を抱き込んだ内紛劇なんて、掃いて捨てるほどあるじゃないですか」樋口は話にならないといった素振りである。
「やはり君もそう思うか」
「誰だってそう思うのが普通です。そんな話にうっかり乗せられて、天下のマル水食品の社長が政策を誤ったなんてことになりますと、社長の品位に傷がつくというものです。絶対お止めになったほうがいい」
「私も最初はそう思って気が乗らなかった。ところがだな、後藤田は本気なんだよ」金丸はそう言って、預かっていた辞表をデスクの引き出しから取り出してきてテーブルの上に置いた。
「辞める気ですか」
「辞める覚悟の者が内紛劇なんかやるだろうか」
「それも計算のうちに入っているかもしれませんよ。私だったらそれくらいやりますもの」
「そうか、よしわかった。それじゃ君のときは辞めてもらうことにするよ」金丸は澄ました顔で返した。
樋口は苦々しい思いをしながら、
「第一どんな組合かわからないじゃないですか。組合の委員長なんて口先だけのいい加減な輩が多いですからね」と話を変えた。
「君だって組合の委員長経験者じゃないか」
マル水食品では、組合の役員は会社における一つのポストのような色彩を持ち、ガバナンス機能の一翼を担っていた。力のある者がどんどん立候補し、自らの見識やリーダーシップを遺憾なく発揮して社内における自らの地歩を固めていった。あるいはまた、組合活動を通じて蓄えた力を仕事に活かすという好循環を生み、組合役員は会社でのポスト競争の登竜門のような存在になっていた。
樋口も若いころ組合の委員長を務めた。さらには、マル水食品の関係会社を糾合した‘マル水食品労働組合連合会’の会長も務めた。
しかし、中国食品の労働組合はこの連合会に加入していなかった。それは、マル水食品とその関連会社のほとんどが歴史も古く、立地も東京周辺に集中していたことによる。一方の中国食品は、生い立ちも若く立地も広島と離れていたため、労働条件の交渉を主な活動領域とする労働組合にとって、同一のレベルで活動することが敬遠されたのだ。そのことが吉田らの苦悩を一層深いものにした一因でもあった。
「私たちは特別だと思っております。確かにわが社は組合を大事に扱います。それというのも、組合がマル水食品というしっかりとしたコーポレートカルチャーの中で、組合規範というものを踏まえた活動をするからです。お互いの信頼関係が出来上がっております。中国食品がそこまで成熟しているのか、わからないではないですか。組合を大事にすることと今回の件は別儀ではありませんか」
「しかし、経営のナンバーツーが進退を掛けて私に会えと言うのだよ。そこになにか信じるものがあると思うんだがどうかね」
「私はそれも茶番じゃないかと思っているのですが、社長がそこまで仰るのなら結構です。それで私にどうせよと仰るのですか」
「うん。君にも同席してもらいたいのだよ」