更新 2016.04.21 (作成 2006.10.25)
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第3章 動く 2.次は
翌日、今度は楢崎がやってきた。
「ヒーさん、水沼にちゃんと引き継ぎやってくれんかね」
「ちゃんとやってますよ。引き継ぎ書の写しを提出しとるやないですか」
「そういうことじゃなくて、彼が一人でできるようにするのが引き継ぎやろ」
「だから、私はちゃんとメモっときなさいよと言ったんですよ。そしたら、なんとかなるやろって言うから、そうしたまでですよ。引き継ぎ書も済んでいることだし、何とかしてもらったらいいのと違いますか」
「何とかならんから頼みよるんよ。教えてやってくれ」
「教えることなんかありませんよ。第一私より能力があると思ったから連れてきたんでしょ。能力のない者が能力のある人に教えることなんかありませんよ」
今さら関係が良くなるわけじゃなし、媚びたところで舐められるだけである。平田はかたくなに拒絶した。
どうにもならないと思った楢崎は、
「俺がこれだけ頼んどるのに、聞いてくれんのんか。それでいいんやな」と、恫喝してきた。
「それなら、言わせてもらいますが、あんた俺の転勤を一言も言わんかったやないか。都合の悪いときだけ言われてもねぇ」
楢崎も多少の後ろめたさがあるらしく、トーンを落としてきた。
「それじゃ、誰に聞いたらいいかだけでも教えてやってくれ」
「それも、言ってあります。水沼に聞くんですな」
楢崎も平田の意固地に閉口し、切り上げていかざるを得なかった。
一寸の虫にも五分の魂である。心の片隅では、“せっかく俺が心血を注いで作ってきたシステムが死んでしまうかもしれない。多少なりとも会社の機能が落ちるだろうな”と、胸の痛みを覚えたがここは譲れなかった。
平常時で、引き継ぎも仕事の一環と思えば平田の信条に反することであるが、今の平田はそんなことを考えるゆとりはなかった。
平田の頭の中は、新しい仕事に早く慣れることと、賃金部長として新しい要求基準作りという、つかみ所のないとてつもなく大きく思える課題をどうするかでいっぱいだった。
工場の仕事は、時間に正確に終わる。次のクールの人が出勤してきたら交替である。平田は、仕事の段取りや機器の調子など簡単な引き継ぎを済ますとそそくさと工場を後にし、毎日のように組合事務所に顔を出した。前任者がどのように仕事をしていたのかを調べるためである。しかし、『新しい要求基準作り』は今期から言われだしたテーマであり、そんな資料などどこにもなかった。
「平田さん、何を調べよるんですか」作田が、怪訝な顔をして聞いてきた。
「うん、新しい要求基準作りに関して、前の人たちが何か残してないかなと思ってさ」
「そんなもんあるわけないやないですか。これは私たちが掲げたテーマですからないですよ」
「うんそうなんだけど、まぁテーマに上がるくらいだから、何か参考になるもんでもあるかなと思ってね。やっぱりダメか」
「ただ、今のままじゃダメなんですよ。やっぱり何か新しい基準を考え出さないと要求根拠が空虚で交渉に負けるんです。頼みますよ」なぜか作田は嬉しそうに言った。人が苦労するのを楽しんでいるようである。
そうなると、自分で考え出さなければならない。そのためには賃金とは何か、賞与とは何か、手当てとは、といったことを本質から勉強しなければならない。平田は組合所蔵のおよそ賃金と書いてある本を片っ端から読みふけった。しかし、どれも同じようなことばかりが書いてあって、平田が欲しいと思っている賃金の本質のところになかなか巡り合わない。平田は、泥沼の中に足を突っ込んだかのように焦りを覚えた。出口の見えないトンネルの中に入ったようだ。しかし、来年の運動方針案作成時までにはなんらかの案を作らねばならない。しかも、周りには相談できる人は誰もいない。みんな平田さん頼みます、と言うばかりである。
そんな日が1週間も続いたある日、今度は企画室の課長である渡辺順介がやってきた。平田が工場に赴任して2週間以上も経っている。辞令をもらってかれこれ1カ月である。その間、平田がやっていた仕事が全く進んでいないことは確かである。
「平田君よ、工場の予算ができんのよ。お前作ってくれんかのぉ」
“次は渡辺さんか”と、平田はうんざりした。
「そんなことできるわけないじゃないですか。私は工場の人間ですよ。そんな暇はありませんよ」
“楢崎が、予算が作れないから猶予をくれとでも泣きついたんやろ。どうせ、俺が引き継ぎをうまくやってくれんからだと、悪者にされとるにちがいないんや。知るもんか”と平田は渡辺の顔を見返した。
「お前なら、夕方からでも作れるやろ」
なんとも都合のいい言い方である。
「とんでもない。私は組合のほうでも大きな課題を抱えて頭がいっぱいなんですから。とてもそんな余裕はありませんよ」
「そう言わんとなんとかやってくれよ。その代わりと言っちゃなんだけど、そのうち俺が必ず本社に引き戻すようにするから」
“そんなお為ごかしに乗れませんよ。子供じゃあるまいし”と、こんな大事なことを簡単に引き合いに出す渡辺が信じられなかった。
「そのうちっていつですか」平田はわざと引っかかった。
「まあ、2、3年待ってくれ。そしたら必ず引っ張るから」平田が乗ってきたので、渡辺の声に元気が出た。しかし、
「今なら信じますよ。私が欲しいのは今でしょう。製造部がいらないなら企画で使いますってやってくださいよ」
「今すぐは無理よ」
「どうしてですか。製造部はいらないからって、期の途中でも捨てたやないですか。拾うのはできないんですか」
「そう無理を言うなよ」
「無理を言っているのはそちらですよ。工場の人間を捕まえて、時間外で予算を作れなんておかしいでしょう。やっぱり本気じゃないんですね」
「困ったのう」渡辺は、苦渋に満ちた顔で心底腹の中から吐き出すように唸った。
「もう引き継ぎは終わっているのですから、製造部でやってもらったらいいじゃないですか」と、平田の答えはつれなかった。
“なんだ、結局自分が困っているからだけじゃないか。俺のことなんかどうでもいいわけだ”そう考えると悲しくなり、平田は黙りこんだ。
それに、平田の頭の中は賃金のことでいっぱいで、予算だのなんだのにかかずりあっている余裕はなかった。